ヨーロッパの歴史

ポーランド回廊はなぜドイツを二分したのか?戦後独立と「細長い土地」の地理的背景

1918年、第一次世界大戦の終結とともにポーランドは約120年ぶりに独立を回復しました。しかし、この新生ポーランドには重大な課題がありました。国土の大部分が内陸部であり、海への出口を持たなかったのです。

ポーランド回廊とは何か

そこで設けられたのが、バルト海へと抜ける細長い帯状の領土、いわゆる「ポーランド回廊」です。この回廊はドイツ領(当時の西プロイセン)の一部を割いて通っており、ドイツ本土と東プロイセンの間にくさびのように差し込まれる形となりました。その結果、ドイツの領土は文字通り南北に二分されることになったのです。

なぜドイツから土地が奪われたのか

この回廊の土地は、それまで事実上ドイツ(プロイセン王国)の領土でした。18世紀末のポーランド分割以降、この地域はプロイセンの支配下に置かれていたためです。しかし、第一次世界大戦でドイツは敗北し、1919年のヴェルサイユ条約によって領土の割譲を余儀なくされました。歴史的にポーランド人が多く暮らしてきたヴィスワ川流域一帯がポーランド側に引き渡され、ここに回廊が成立しました。

地理的な理由から見た回廊の位置づけ

地理的に見ると、この決定には一定の合理性があります。
第一に、ポーランド国家として存続するには経済的な生命線であるバルト海への出口が不可欠でした。
第二に、回廊のルートはヴィスワ川下流域に沿っており、この地域にはもともとポーランド系住民が数多く居住していました。民族分布という観点では、必ずしも無理のある線引きではなかったのです。
一方で、港湾都市ダンツィヒ(現グダニスク)の住民の大半はドイツ系だったため、同市は「自由都市」として国際連盟の管理下に置かれ、ポーランドにも一定の港の使用権が認められました。

回廊がもたらした緊張

こうして生まれたポーランド回廊は、ポーランドに海へのアクセスを与える一方、東プロイセンをドイツ本体から切り離す結果となりました。陸路で自国領土を行き来できない東プロイセンのドイツ人たちの不満は大きく、この「回廊問題」は後の独波関係を著しく悪化させ、第二次世界大戦への火種の一つともなったのです。