ラインラント再占領とは何だったのか
1936年3月7日、アドルフ・ヒトラーは、ヴェルサイユ条約によって非武装地帯と定められていたドイツ西部のラインラント地方に、ドイツ国防軍を進駐させました。この行動は「ラインラント再占領」と呼ばれ、第一次世界大戦後に築かれた国際秩序に対するナチス・ドイツによる重大な挑戦となりました。
ヴェルサイユ条約への公然たる違反
1919年に調印されたヴェルサイユ条約は、敗戦国となったドイツに対し、ライン川周辺地域での軍事活動や要塞化を禁じていました。さらに1925年のロカルノ条約でも、この非武装状態が独仏双方によって確認されていました。ヒトラーによる軍の派遣は、これらの条約への明白な違反であり、フランスおよびイギリスに対する直接的な挑戦でした。
当時、英仏両国は、ヒトラー政権によるそれまでの強硬な姿勢(再軍備宣言など)を受けて、自らも再軍備への準備を進め始めていました。しかし、ラインラントへのドイツ軍進駐に対して、両国は即座に軍事行動に移ることはありませんでした。
英仏の対応――宥和への道
フランスは軍事介入も検討しましたが、深刻な財政難や国内世論の分裂を抱え、単独での行動には踏み切れませんでした。一方のイギリスは、「ドイツが自国の領土に軍隊を置くこと」をそれほど重大視せず、むしろドイツとの妥協を模索する宥和(ゆうわ)政策へと傾いていきました。
その結果、英仏は即時の軍事行動こそ取らなかったものの、戦争に備えた準備を着々と進めることになりました。しかしこの対応の弱さは、結果的にヒトラーのさらなる拡張主義を助長することとなります。
第二次世界大戦への大きな転換点
実は、ラインラント進駐はヒトラーにとっても大きな賭けでした。進駐したドイツ軍の規模は限られており、もしフランス軍が本格的に反撃すれば、撤退を余儀なくされる可能性すらあったとされています。ところが英仏が動かなかったことで、ヒトラーは自信を深め、翌1938年のオーストリア併合(アンシュルス)やチェコスロバキアへの進出へと、拡張政策を一段と加速させていったのです。
この意味で、ラインラント再占領は、第二次世界大戦につながる一連の出来事における決定的な転換点となりました。国際社会の対応の遅れと宥和政策が、いかに侵略を招きうるかを示す歴史の教訓として、今日でも語り継がれています。