第一次世界大戦(1914~1918年)は、約1,000万人以上の兵士が命を落とす未曾有の悲劇となりました。「二度とこのような戦争を起こさない」という強い願いのもと、戦後の国際社会では平和を確立するためのさまざまな試みが展開されました。ここでは、その代表的な取り組みを8つ紹介します。
1. パリ講和会議(1919~1920年)とヴェルサイユ条約
戦後処理の中核となったのが、パリで開催された講和会議です。敗戦した同盟国側との間で講和条約が交渉され、なかでもドイツとの間で調印されたヴェルサイユ条約は最も重要な成果でした。同条約には、領土の再編、多額の賠償金(賠償義務)、軍備の制限などが盛り込まれ、戦後の国際秩序「ヴェルサイユ体制」の基礎が築かれました。ただし、過酷な賠償条件は後にドイツの経済混乱とナチス台頭の一因ともなり、歴史的に評価が分かれる点でも知られています。
2. 国際連盟の設立
アメリカ大統領ウィルソンの提唱した「十四か条の平和原則」を背景に、世界初の国際平和維持機構である国際連盟が1920年に発足しました。集団安全保障の考え方に基づき、紛争を話し合いで解決し、戦争を未然に防ぐことを目的としていました。外交の場を提供することで将来の戦争を防ぐ狙いがありましたが、アメリカの不参加や大国の離脱などにより、その機能には大きな限界がありました。
3. ワシントン海軍軍縮会議(1921~1922年)
列強各国の間で激化していた建艦競争を抑えるため、アメリカの提唱によりワシントンで海軍軍縮会議が開催されました。主力艦(戦艦・巡洋戦艦)の保有比率を米英日5:5:3とするワシントン海軍軍縮条約をはじめ、航空母艦などの艦艇の規模と武装を制限する複数の条約が成立し、戦間期の軍縮の流れを象徴する出来事となりました。
4. ロカルノ条約(1925年)
ドイツ、フランス、ベルギー、イギリス、イタリアの5か国によって締結されたロカルノ条約は、ヨーロッパの安全保障を安定させることを目指した一連の協定です。ドイツとフランス・ベルギーの現状国境(ラインラントの非武装化)を相互に保障し、不可侵と紛争の平和的解決を確認しました。ドイツの国際社会への復帰を促し、「ロカルノの精神」と呼ばれる宥和の雰囲気をもたらしました。
5. ケロッグ=ブリアン条約(不戦条約、1928年)
ケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約とも呼ばれます)は、戦争を国家政策の手段として放棄することをうたった国際条約です。当時の主要国のほとんどが署名し、国際紛争における武力行使を違法化しようとする画期的な試みでした。法的拘束力や制裁措置が伴わなかったという弱点はあるものの、後に国連憲章へとつながる「戦争違法化」の理念の出発点として重要な意義を持っています。
6. さまざまな軍縮会議
戦間期には、軍備削減を目指す国際会議が数多く開催されました。代表例としては、1930年のロンドン海軍軍縮会議や、1932~1934年にジュネーブで開かれたジュネーブ軍縮会議などが挙げられます。しかし、世界恐慌以降の国際情勢の悪化や各国の利害対立により、これらの会議は次第に機能不全に陥っていきました。
7. 国際労働機関(ILO)の設立
1919年、国際連盟の傘下機関として設立されたのが国際労働機関(ILO)です。「恒久平和は社会正義の上にのみ築かれる」という理念を掲げ、世界中の労働条件の改善と社会正義の実現を目指しました。労働時間の制限や失業保険などの国際労働基準の策定に貢献し、現在も国連専門機関として活動を続けています。
8. ドーズ案(1924年)とヤング案(1929年)
ドイツの賠償問題は戦後経済の最大の懸案事項でした。ドーズ案は、アメリカの実業家ドーズを中心とする委員会が提示した賠償支払い計画で、ドイツへの融資と併せてハイパーインフレに苦しむドイツ経済の安定を実現しました。続くヤング案は、賠償総額と支払い期間を見直し、より現実的な返済スケジュールを定めました。両案はヴェルサイユ条約の賠償条項の修正を通じて、ドイツ経済の復興と国際関係の安定を図るものでした。
平和への努力はなぜ挫折したのか
こうした多岐にわたる取り組みにもかかわらず、戦間期の国際社会は、急激なナショナリズムの高揚、世界恐慌による経済的混乱、そして政治的不安定に直面しました。ファシズムの台頭や大国間の協調の崩壊により、平和を守る仕組みは次々と形骸化していき、最終的に1939年、第二次世界大戦の勃発によってヴェルサイユ体制は崩壊することとなります。それでも、この時期に培われた集団安全保障や軍縮、国際協力の理念は、第二次世界大戦後に誕生した国際連合の礎となり、今日の国際秩序に受け継がれています。