第一次世界大戦への参戦
オスマン帝国は1914年、ドイツおよびオーストリア=ハンガリーからなる「中央同盟国」側として第一次世界大戦に参戦しました。当時の帝国は「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほど衰退していましたが、参戦の背後にはいくつかの明確な動機が存在していました。
オスマン帝国が参戦した4つの理由
1. 汎イスラーム主義(パン・イスラーム主義)
オスマン帝国はイスラム世界の盟主として、全ムスリム(イスラム教徒)の保護者を自任していました。イスラム世界の団結と強化を掲げる汎イスラーム主義は帝国内で大きな支持を集めており、この戦争は「欧州列強の進出からイスラムを守る聖戦(ジハード)」として位置づけられました。実際、開戦時にスルタンはジハードを宣言し、世界各地のムスリムに呼びかけています。
2. 失った領土の奪回
帝国は過去の戦争でバルカン半島や北アフリカなど広大な領土を失っており、これらを取り戻す強い意欲を持っていました。大戦は失地回復の絶好の機会であると同時に、中東地域における影響力を拡大する好機でもあると考えられていたのです。
3. 経済上の利益
当時のオスマン帝国は経済的に脆弱であり、政府は参戦によって新たな通商の機会と経済成長がもたらされることを期待していました。しかし、この期待は後に大きく裏切られることになります。
4. ドイツからの圧力
オスマン帝国は中央同盟国の中核であるドイツと緊密な同盟関係にありました。ドイツはオスマン帝国に対して参戦を強く促しており、政府としては拒否した場合に生じる外交的・軍事的な帰結を懸念せざるを得ませんでした。こうした事情が重なり、帝国は連合国側ではなく中央同盟国側に立つことを決断したのです。
開戦後、帝国は苦戦を強いられる
開戦すると、オスマン帝国はたちまち厳しい現実に直面しました。軍隊は装備も訓練も十分とは言えず、指導部は数々の戦略的誤りを犯します。その結果、バルカン、コーカサス、中東といった各戦線で相次いで敗北を重ねることになりました。
ただし、1915年のガリポリの戦いでは連合国軍の上陸を見事に食い止め、勝利を収めています。この戦いで頭角を現したのが、のちにトルコ共和国初代大統領となるムスタファ・ケマル(アタテュルク)でした。
戦争がもたらした壊滅的な結末
第一次世界大戦への参戦は、オスマン帝国にとって壊滅的な結果をもたらしました。数百万人規模の尊い命が失われ、経済は崩壊し、帝国は列強によって解体へと追い込まれていきます。1918年10月、帝国はモドロス休戦協定によって正式に降伏しました。
戦後、帝国はセーヴル条約(1920年)で大幅な領土削減を強いられますが、ムスタファ・ケマル率いるトルコ民族運動が徹底抗戦を続けました。その結果、1922年にスルタン制が廃止され、翌1923年には新生「トルコ共和国」が成立。6世紀余りにわたって繁栄を極めたオスマン帝国の歴史は、ここに幕を閉じたのです。