英仏はドイツを「過大評価」していた
第二次世界大戦でイギリスとフランスがドイツに宣戦布告した際、両国がドイツを過小評価していたという見方は必ずしも正しくありません。むしろ、当時の英、当時の英仏はドイツ軍を過大評価していたと考えることができます。その背景には、以下のような要因がありました。
第一次世界大戦でのドイツ軍の強さ
ドイツは第一次世界大戦において東部戦線でロシアを打ち破るなど目覚ましい戦果を挙げ、その軍隊は世界最強クラスであると広く認識されていました。この記憶は英仏の指導層や国民に強く残っており、ドイツ軍への警戒心を高める一因となりました。
独ソ不可侵条約(モロトフ・リッベントロップ条約)
1939年8月、ドイツとソビエト連邦は独ソ不可侵条約を締結しました。この条約と秘密議定書により東欧は両国の勢力圏に分割されることになり、ドイツはソ連の介入を恐れることなくポーランドへ侵攻できるようになりました。一方の英仏にとっては、第一次世界大戦のような東部戦線に期待できず、西側だけでドイツと対峙しなければならない厳しい状況となりました。
マジノ線への過信
フランスは独国境沿いに巨大な要塞線「マジノ線」を築き上げました。フランス首脳部はマジノ線がドイツの攻撃に対して難攻不落であると信じ込んでおり、1940年5月にドイツが侵攻してきた際にも迅速な対応が取れませんでした。ドイツ軍はベルギー方面からマジノ線を迂回する電撃戦を展開し、フランスの防衛構想はあっけなく崩れ去りました。
開戦への経緯と英仏の苦戦
こうした要因が重なった結果、1939年9月のドイツによるポーランド侵攻に対して、イギリスとフランスは十分な準備がないまま参戦することになりました。ドイツ軍は電撃戦によって瞬く間にポーランドを制圧し、英仏はドイツに対して宣戦布告せざるを得なくなりました。
1940年、ドイツ軍は西ヨーロッパへの侵攻を本格化させます。イギリス派遣軍(BEF)はダンケルクからの撤退(ダイナモ作戦)を余儀なくされ、フランスは同年6月に降伏しました。フランスの陥落は大戦における重大な転換点となり、ドイツは西部の懸念を払拭した後、ソビエト連邦への進攻へと兵力を振り向けることができるようになりました。
フランス陥落後、ドイツと戦い続ける連合国の主要国はイギリスのみとなり、同国は長期にわたる苛烈な戦争に直面することになりました。しかしイギリスはバトル・オブ・ブリテン(英国航空戦)などでドイツの上陸作戦を退け、1941年12月にアメリカが参戦するまで持ちこたえることに成功したのです。