1956年に起きた「スエズ危機(第二次中東戦争)」において、イギリス、フランス、イスラエルの三国がエジプトに対して軍事行動を仕掛けたことは、歴史的に明確に記録された事実です。本記事では、この奇襲攻撃がなぜ行われたのか、その背景と経緯を詳しく解説します。
発端はスエズ運河の国有化
1956年7月26日、エジプトのガマール・アブドゥル=ナセル大統領は、英仏両国が運営してきたスエズ運河会社の国有化を一方的に宣言しました。スエズ運河はヨーロッパとアジアを結ぶ海上交通の要衝であり、特にイギリスにとっては中東の石油資源を自国へ運ぶ生命線でした。
ナセル政権は、アスワン・ハイ・ダム建設のための資金調達を目的として国有化に踏み切ったとされますが、英仏両国はこれを重大な脅威と受け止めました。自国の経済的・戦略的利益が損なわれることを恐れた両国は、軍事力による解決へと傾いていきます。
イスラエルの動機
一方、イスラエルにも独自の理由がありました。当時、エジプトはティラン海峡を封鎖してイスラエルの紅海方面への航路を遮断し、パレスチナゲリラ(フェダイン)による越境攻撃も活発化していました。さらに、ソ連製の最新鋭兵器で武装するエジプト軍の存在は、イスラエルにとって深刻な安全保障上の懸念でした。
秘密協定「セーヴル協定」
1956年10月、三国の代表はフランスのセーヴルで極秘会談を行い、以下のような計画を取り決めました。
- イスラエル:シナイ半島へ侵攻し、スエズ運河に接近する
- 英仏:「停戦確保」を名目に両陣営へ最後通牒を発し、エジプトが拒否すれば空爆と上陸作戦を実施する
このように、あらかじめ口実まで用意した綿密な共同作戦であったことが、後の歴史研究によって明らかにされています。
開戦から撤退まで
10月29日、イスラエル軍がシナイ半島へ侵攻。翌30日に英仏が停戦要求を突きつけ、エジプトの拒否を受けて31日から空爆を開始しました。11月5日にはポートサイド付近に部隊を上陸させています。
しかし、この軍事行動は国際社会から強い非難を浴びました。特に米ソ両大国が一致して撤退を要求し、国連の介入やポンド安による経済的圧力も重なり、イギリスとフランスは同年11月に撤退を余儀なくされました。この結果、イギリスの国際的地位は大きく低下し、中東における旧宗主国の影響力は急速に衰退することとなりました。
まとめ
スエズ危機における三国の奇襲攻撃は、運河の利権を守りたい英仏の経済的・戦略的思惑と、安全保障上の脅威を除去したいイスラエルの事情が合致した結果として実行されました。しかし、植民地主義的时代の手法はもはや時代遅れであり、国際世論と超大国の圧力によって失敗に終わったのです。この事件は、戦後国際秩序の転換点として、今日でも多くの歴史家によって研究されています。