ヨーロッパの歴史

アドリアノープルの戦いの後、ゲルマン諸部族はローマを攻撃したのか?

結論:すぐに攻撃されたわけではない

アドリアノープルの戦い(西暦378年)の直後に、ローマ市そのものがゲルマン諸部族に攻撃されたわけではありません。しかし長い目で見れば、この戦いはローマ帝国の衰退へ向かう重要な転換点となりました。

アドリアノープルの戦いとは

西暦378年8月9日、東ローマ皇帝ウァレンス率いるローマ軍は、フリティゲルン指揮下の西ゴート族と、トラキア地方のアドリアノープル(現在のトルコ・エディルネ)近郊で激突しました。結果はローマ軍の壊滅的な敗北であり、皇帝ウァレンス自身も戦死しました。これは古代ローマ史上最悪級の敗戦とされ、ローマ軍の威信に大きな打撃を与えました。

ローマ市陥落までの道のり

アドリアノープルで勝利した西ゴート族でしたが、彼らが実際にローマ市を攻略したのは、それから32年後の西暦410年のことです。当時の西ゴート族の王アラリック1世は、東ローマ帝国との交渉やバルカン半島での移動を経てイタリアへ進軍し、ついに「永遠の都」ローマを包囲・占領しました。

410年8月24日、ローマ市は約800年ぶりに外部勢力の手に落ちることになりました(前390年頃のガリア人による占領以来)。ただし、アラリックの狙いは都市の完全な破壊ではなく交渉を有利にするための占領だったため、略奪は数日で終わり、教会などは保護されたと伝えられています。

その後の展開

410年のローマ略奪は帝国全土に強い衝撃を与えましたが、西ローマ帝国が正式に滅亡したのはさらに後のことです。

  • 455年:ヴァンダル族の王ガイセリックが再びローマ市を略奪
  • 476年:ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、西ローマ帝国が滅亡

まとめ

アドリアノープルの戦いの直後にローマ市が陥落したわけではありませんが、この大敗は、ローマ帝国がもはやゲルマン諸部族の動きを十分に抑えられなくなったことを示す象徴的な出来事でした。そして32年後の410年、アラリック1世率いる西ゴート族によってローマ市は陥落し、帝国衰退の歯車は止まらなくなったのです。