1955年5月14日、冷戦の真っ只中に創設されたワルシャワ条約機構は、ソ連、ポーランド、アルバニア、東ドイツ(GDR)、チェコスロバキア、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーを結集した軍事同盟である。NATO(北大西洋条約機構)に対抗する存在として、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)のNATO加盟による再軍備を可能にしたパリ協定(1954年)への回答として誕生した。ソ連圏の防衛のために設計されたこの同盟の運営実態は、東側陣営を形作る力関係を如実に物語っている。
ワルシャワ条約機構の成立と仕組み
ワルシャワ条約機構は相互防衛条約であり、加盟各国の軍隊を統一司令部の下に置いた。初代司令官にはコーネフ元帥が就任している。1955年時点で、こうして一元化された兵力は600万人に上ると評価され、武器・装備も標準化されていた。
この軍事同盟は同時に大きな政治的意味を持っていた。1956年のハンガリー動乱、そして1968年のチェコスロバキアにおいて、ヨーロッパ共産圏の統一を必要とあれば武力によってでも維持するための、ソ連による武装介入の正当化根拠となったのである。なお、中華人民共和国とイデオロギー的に歩調を合わせていたアルバニアは、1968年9月に条約から正式に脱退した。さらに注目すべきは、早くも1955年の時点でモスクワが、NATOとワルシャワ条約機構の同時解散という提案を西側に提示していたことである。
デタント(冷戦緩和)の進展や、特にルーマニアなど人民民主主義諸国におけるナショナリズムの台頭にもかかわらず、1970年代初頭においても、ワルシャワ条約機構は東欧に駐留する120万人を超える戦力を擁し続けた。1976年7月には、加盟国外相委員会の創設により、政治レベルでの組織強化さえ図られている。
抑圧の装置としての機能
組織内部において、ソ連軍は中心的な地位を占め、最良の装備を有していた。これらの装備は、「信頼に足る」と見なされたブルガリア軍など限られた同盟国と共有された。一方モスクワは、ハンガリー人とルーマニア人の間の民族的対立などを巧みに利用して支配を維持し、あえてこの軍事組織の結束を弱めることさえ厭わなかった。
条約からの脱退は極めて危険な賭けであった。1956年のハンガリー革命でブダペストが味わった悲劇がそれを証明しており、1968年にはプラハの春がワルシャワ条約機構軍によって粉砕された。
それでもなお、この同盟は欧州史上最大級の平時における軍事的展開であった。最盛期にはウラル山脈から鉄のカーテンまでの範囲に、合計約150個師団もの兵力が配備されたのである。ただし、この同盟が崩壊した際の驚くほどの速さを見れば、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアといった加盟国部隊の忠誠心には当初から疑問があったと言えるだろう。
ワルシャワ条約機構の終焉
1988年末、ゴルバチョフ主導の下、ソ連は条約加盟国に対して同盟を選択する自由を認める方針を打ち出した。1990年には、チェコスロバキアとハンガリーがソ連との間で、自国領土からのソ連軍撤退を定めた協定に調印した。同年6月7日、加盟国首脳はモスクワに集まり、同盟を「主権国家間の平等な権利に基づく民主的な枠組み」へと転換することで合意した。
ドイツ民主共和国(東ドイツ)は、西ドイツとの統一に伴い、現実に条約を離脱した最初の国となった(1990年9月24日)。続いて1991年2月25日のブダペスト会合において、残留していた加盟国の外相たちが条約の軍事機構の解散を決定した。政治機構についても、その後同年7月に解散されている。1991年の時点で条約に留まっていたのは、親ソ色の濃いブルガリアのみであった。
興味深いのは、社会主義圏の崩壊から10年足らず経った1999年、ワルシャワがプラハやブダペストとともにNATOへ加盟を果たした点である。東欧諸首都の住民にとって、脅威は常に東からやって来るものとして認識され続けてきたのだろうか。
参考文献
Claude Delmas(クロード・デルマ)『Le Pacte de Varsovie(ワルシャワ条約)』PUF、1981年。