2010年10月14日、マンハッタンの聖サワ・セルビア正教会大聖堂で執り行われた式典において、当時95歳だったジョージ・ヴイノビッチ(George Vujnovich)にブロンズスターメダルが授与されました。彼は第2次世界大戦中のアメリカ情報機関OSS(戦略情報局)の工作員であり、OSSは後にCIAの前身とされる組織です。
ジョージ・ヴイノビッチ
ジョージ・ヴイノビッチとは何者か?
1915年5月31日、アメリカ・ピッツバーグにセルビアからの移民の子として生まれました。医師を目指してユーゴスラビアのベオグラードに留学していた1941年、ドイツ軍がユーゴスラビアへ侵攻します。彼は妻のミリャナ・ラズィッチ(Mirjana Lazych)とともに各国を転々としながら逃れ、最終的にアフリカへたどり着き、パンアメリカン航空に勤務しました。
セルビア系出身であり、ベオグラードでの生活経験を持つ彼に白羽の矢を立てたのがOSSでした。こうしてヴイノビッチは工作員として採用されます。一方、アメリカへ亡命していたミリャナはワシントンのユーゴスラビア大使館で働いており、そこで「ドイツ軍に撃墜された航空兵たちを救い出し、匿っているセルビア人ゲリラがいる」という報告を耳にします。彼女はその情報を、1943年から南イタリアに駐在していた夫のもとへ伝えたのです。
ゲリラ組織「チェトニック」とユーゴスラビアの分裂
そのゲリラこそがチェトニック(Chetniks)でした。セルビア民族主義・王政派のゲリラ組織で、指導者は元ユーゴスラビア参謀本部大佐のドラゴリュブ・ミハイロヴィッチ(Dragoljub Mihailovich)です。
ユーゴスラビア侵攻後、同国はドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアによって分割占領され、さらにクロアチア独立国とセルビア国民救済政府という2つの傀儡政権が樹立されました。国内には複数の準軍事組織が乱立し、のちにチトー元帥と呼ばれる共産主義者が率いるパルチザン解放軍と、チェトニックが並び立つことになります。
ドイツ軍の圧倒的な戦力と苛烈な報復を前に、チェトニックはドイツが弱体化するまで時を待ち、大セルビア建設への決定的な一撃を加えるための消極抵抗を選択しました。一方のパルチザンは、特に独ソ戦の開始以降、積極的な抵抗路線を採ります。この路線の対立により両組織は衝突を重ね、ついにはチェトニックがドイツ軍側につき、パルチザンと戦う場面さえ生じたのです。
チェトニック。「王と祖国のため、自由か死か」
ハリアード作戦の始動
連合軍によるシチリア侵攻の成功を受けて、1943年秋には南イタリア全土が連合軍の支配下に入ります。同年末、米第15航空軍はチュニジアからフォッジャ(イタリア)へ移駐し、ヒトラーが最重要の燃料源とみなしていたルーマニアの油田や製油所への爆撃を開始しました。
爆撃機は往復の途上でユーゴスラビア領空を通過せねばならず、多くの機が撃墜されました。そして撃墜された500名を超える搭乗員たちは、チェトニックによって救出され、匿われていたのです。
バーリにいたヴイノビッチは救出計画を立案します。当初、上層部はチェトニックの指導者ミハイロヴィッチがドイツ軍と公然と戦っていないことを理由に難色を示しましたが、計画を精査した結果、ついに承認へと至りました。これがハリアード作戦(Operation Halyard)です。
ヴイノビッチは敵陣深く潜入する3名のOSS現地工作員に指示を与えます。1944年8月、無線機を携えた3人の工作員は、チェトニック支配地域へパラシュート降下しました。
救出された搭乗員たち(右端がヴイノビッチ)
犠牲者ゼロで512人を救出
バーリから、ヴイノビッチは工作員たちとミハイロヴィッチの協力を得て救出作戦を指揮しました。数か月にわたり、即席の滑走路が整備され、安全な脱出地点が確保され、撃墜された搭乗員全員が一人の犠牲も出すことなく救出されます。合計512名にのぼる、第二次大戦史上最大級の救出劇となりました。
しかし戦後の運命は過酷なものでした。1946年、ユーゴスラビアの共産主義政権は「ナチスとの協力」を罪名にミハイロヴィッチを処刑します。1948年、トルーマン米大統領は彼にレジオン・オブ・メリット(功績勲章)を死後授与しましたが、ユーゴスラビアとの関係悪化を避けるため、これは公表されませんでした。
ヴイノビッチ自身の功績が公式に認められたのは、ようやく2010年になってからでした。彼は2012年4月にこの世を去っています。
出典:Daily Mail、NBC News、The Telegraph