古代の歴史

使徒聖パウロとはどんな人物? 迫害者からキリスト教最大の伝道者へ

使徒聖パウロとはどんな人物? 迫害者からキリスト教最大の伝道者へ

地中海に面する都市タルソス(現在のトルコ)に生まれたローマ市民サウロは、若き日には熱心にキリスト教徒を迫害していました。しかし聖書によれば、復活したイエス・キリスト自身との出会いによって回心し、キリスト教を世界に広める上で最も重要な人物の一人となったのです。不信者にとっては驚異的な物語であり、カトリック信徒にとっては教義の一部であるこの出会いは、「パウロ」、後の使徒聖パウロの誕生につながりました。矛盾に満ちた生涯と業績を持ちながらも、その存在意義は今なお色褪せることはありません。

新約聖書におけるパウロの影響力

タルソスのサウロ、すなわち使徒聖パウロは、キリスト教を普遍的な宗教へと導いた熱烈な信奉者でした。しかし当初、彼はクリスト教徒ではなく、むしろキリストの追随者たちに対する最初の迫害に加担していた人物でした。

新約聖書全27巻のうち14冊が伝統的に彼の著述とされ、「使徒行伝」の約半分も彼の生涯と働きに関する記録です。専門家の間では7つの手紙が真正なものと認められており、残りの手紙については真偽をめぐる議論が今も続いています。

生い立ちと出自

パウロは西暦5年から10年の間に、現在のトルコ領にあたるタルソスで生まれたと考えられています。ローマ国籍を有し、ユダヤ教ファリサイ派の家庭で育ちました。

ダマスコへの道――運命の回心

イエスの十字架刑からまもない頃、ダマスコへ向かう旅の途中でサウロは決定的な経験をします。当時ユダヤ教の異端とみなされていたキリスト教を受け入れ、救い主としてイエス・キリストを迎えるよう、復活したイエス自身が彼の前に現れたのです。この時、彼の名は「サウロ」から「タルソスのパウロ」へと改められました。

回心の時期

パウロ自身の手紙の記述を参考にすると、回心は西暦31年から36年頃の出来事とされています。聖書では「使徒行伝」(9章1節〜31節、22章1節〜22節、26章9節〜24節)にもこの出来事が記されています。伝えられるところによれば、復活したイエスを見たパウロは3日間失明し、ダマスコの医師アナニアによって視力を回復しました。この体験を通じて、神から与えられた使命を深く確信するようになったのです。

広範な伝道活動

回心以降、パウロは旅立った先々——ギリシャ、小アジア、シリア、パレスチナなど——で福音(良き知らせ)を広めるとともに、地中海世界の諸民族へ手紙を書き送りました。

パウロは神学、哲学、法学、言語学、商業についての教育を受けており、ギリシャ語、ラテン語、アラム語、ヘブライ語を自在に操ることができました。こうした高度な教養と言語能力は、彼のメッセージを広める上で数多くの扉を開くこととなったのです。

現代キリスト教に残した遺産

パウロが残した概念の中には、今日までキリスト教に受け継がれているものが数多くあります。例えば原罪、人類の罪の贖いのためにイエスが十字架上で死んだという信仰、イエス・キリストが単なる説教者ではなく神そのものであったという教え、性に対する否定の姿勢、そして女性の従属といった考え方です。

結婚式で朗読される「愛の賛歌」

使徒聖パウロの著作の一つ(新約聖書の7冊目にあたる手紙)は、今日のミサ、特に結婚の秘跡に関わる儀式で広く用いられています。その一節は次のように綴られています。

「たとえ私が人間や天使たちの言葉を語っても、愛がなければ、鳴り響く鉢や騒がしい鐘と同じです。たとえ預言の賜物を持ち、すべての奥義とあらゆる知識に通じていても、山を動かすほどの信仰を持っていても、愛がなければ何者でもありません。たとえ所有物をすべて分け与え、自らの体を捧げても、誇りのためであって愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は忍耐強く、思いやりに満ちています。ねたまず、自慢せず、高ぶりません。品位を損なわず、自分の利益を求めず、怒らず、恨みを抱きません。不正を喜ばず、真理と共に喜びます。すべてを耐え忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えます」(コリントの信徒への手紙一 13章1節〜7節)

殉教と遺骨の発見

パウロはネロ帝の治世下でローマに投獄された後、西暦67年に処刑されてこの世を去りました。死については諸説ありますが、これが最も広く受け入れられている説です。

聖パウロの主な聖堂は、イタリア・ローマの「城壁外の聖パウロ大聖堂」です。2002年以降この場所で続けられた発掘調査により、2006年、バチカンの考古学者たちが大聖堂の主祭壇下にある大理石の棺から人骨を発見しました。墓はおよそ西暦390年頃のもので、炭素14年代測定法の分析により、骨は1世紀から2世紀のものと特定されました。2009年6月、ベネディクト16世教皇はそれまでの調査結果を公表し、その経緯、埋葬場所、年代測定から見て、これらの遺骨は使徒聖パウロのものである可能性が高いとの見解を示したのです。