山下中将と三人の師団長
幸いなことに、山下奉文中将は麾下三名の師団長のうち、二人とは良好な関係を保っていた。一人は第5師団を指揮する松井太久郎中将、もう一人は第18師団を率いる牟田口廉也中将である。
第5師団は極めて訓練度の高い部隊だった。日中戦争で強行上陸作戦の豊富な経験を積み、機械化も進んでおり、日本陸軍屈指の精鋭と目されていた。第18師団はやや経験が浅く、自動車化も立ち遅れていたものの、こちらも優れた評価を受けていた部隊である。
その指揮官・牟田口中将は短気で気性が荒いことで知られ、飽くなき野心の持ち主としても名を馳せていた。彼は「サマー港を第5師団より後に出発しても、シンガポールへは必ず先に着いてみせる」と心に決めていたという。
近衛師団と西村師団長との確執
三番目の部隊である近衛師団は、陸軍随一の長身の兵士たちを揃え、観兵式などの儀仗における凛とした姿は評判だった。しかし、1904年から05年の日露戦争以来、実戦を経験していなかった。初めて近衛師団の演習を目にした山下は、率直にも師団長・西村琢手中将に対し、「徹底的な訓練が必要だ」と伝えた。
ところが西村は、山下にとって宿敵ともいうべき人物だった。1932年、皇道派事件をめぐる軍法会議において、西村が裁いた相手こそ山下だったのである。この古い因縁のため、西村は山下の命令を真剣に執行しようとしなかった。その結果、近衛師団が出航の時を迎えても、戦闘に耐えうる状態には到底なかったと伝えられている。
寄せ集めの司令部をまとめた山下の人望
ここで触れておきたいのは、第25軍の参謀陣が、各部隊から急遽引き抜かれた将校によって構成されていた点だ。将校たちは互いに面識がなく、山下のこともよく知らないまま、個々の資質にかかわらず異質なチームとなっていた。幸い、山下の人格は瞬く間に彼らに深い感銘を与え、作戦期間を通じて参謀たちは忠誠と協力をもってこれに応えたのである。
第25軍の戦力
歩兵3個師団を支援するため、各師団砲兵のほかに重野戦砲兵連隊2個と戦車第3旅団が配属された。第25軍の総兵力は約6万人。航空戦力は第3飛行集団の459機に海軍機159機が加わり、小沢治三郎中将指揮下の南遣艦隊は、巡洋艦1隻、駆逐艦10隻、潜水10隻、潜水艦5隻を擁していた。
各師団の任務分担
各師団の役割は次のように定められた。第5師団は軍司令部および第18師団の主力とともに、タイ・マレー国境北方のシンゴラ(ソンクラー)に上陸する。別働隊となる「宅見支隊」(支隊長・宅見少将にちなむ命名)は、マレー東岸のコタバルに上陸する。近衛師団はシンゴラ、あるいは別途選定される港に上陸し、第5師団に続いてマレーへ進む。
南下作戦が発動されれば、第5師団と近衛師団はマレー半島西岸を走る幹線道路に沿って進撃し、第18師団は東岸方面で作戦を行うことになっていた。
運命の出航
12月4日の朝、大船団は出航した。辻政信大佐の詩情あふれる記述によれば――
「月の円盤が西の海に沈み、赤い太陽が東の空に顔を出した。金と銀の波がきらめくサマー港は、まるで一幅の絵のように美しかった。輸送船二十隻の船上の将兵は期待に胸をふくらませ、左右には海軍の軍艦が並んで航行していた。これは今後一世紀にわたる国家の命運を決する冒険の始まりであった。賽は投げられた」