古代ギリシャ人都市ソロイとアラトスの誕生
紀元前310年頃、古代屈指の詩人の一人として名を馳せたアラトスが、小アジアの都市ソロイに生まれました。この古代ギリシャ人都市は、後にローマ人によって「ポンペイオポリス」と改称されました。現在のトルコ南部メルシン県、キリキア地方の海岸沿いに位置しています。
ソロイは紀元前700年頃、ロードス島あるいはペロポネソス半島のアルゴスから渡ってきた入植者たちによって建設されたと考えられています。紀元前449年にペルシア帝国へ編入された後も、都市は一定の自治権を保ち続けました。
紀元前333年、アレクサンドロス大王による征服により民主政が敷かれ、大王の死後はセレウコス朝の支配下に入りました。アラトスが生まれたのはまさにこの激動の時代であり、彼の幼少期についてはほとんど記録が残っていません。

ゼノンとの出会いとマケドニア宮廷での活躍
アラトスはある時期、アテナイに赴き、ストア派の祖であるキティオンのゼノンに師事したことが知られています。この縁で、彼はマケドニア王アンティゴノス2世ゴナタスの知遇を得ることになりました。王はアラトスの才能に深く感銘を受け、紀元前276年には自らの婚礼の式典を執り行うため、ペラの宮廷へと招いたのです。
ペラ滞在中、本業である医師として活動するかたわら、アラトスは文法、哲学、詩に関する多数の著作を手がけました。その中には、アンティゴノス王と、紀元前277年のケルト人に対する勝利を讃えるパンへの賛歌も含まれています。しかし彼の名声を決定づけたのは、解剖学、薬学、天文学を題材とした教訓詩でした。惜しくも作品の大半は失われてしまいましたが、唯一『パイノメナ』だけが後世に伝えられています。
『パイノメナ』――古代で最も読まれた詩の一つ
紀元前275年頃に書かれた『パイノメナ』は、ヘレニズム詩の傑作とされ、『イリアス』『オデュッセイア』に次いで古代で最も有名な詩となりました。作者のストア主義的な思想が色濃く表れた第一部には、星座の位置や特徴を記したカタログと、それぞれの神話的な起源譚が収められており、月や太陽の運行と、それらが人間に及ぼす影響についても言及されています。
第二部では、空の観察や自然現象に基づいて天候を予測するための実践的な助言が綴られています。

古代を通じて『パイノメナ』は注釈、批評、再版、翻訳の対象となり、地中海世界全体へと広く普及しました。キケロやウェルギリウスも自らラテン語訳を手がけており、二人は科学という一見詩とは無縁の題材を見事に詩へと昇華させたアラトスの手腕に深い敬意を払いました。
同時に、多くの誤りを含んでいるにもかかわらず、『パイノメナ』は天文学史に絶大な影響を与えました。「数学的天文学の父」と称されるクニドスのエウドクソスの思想や、ペリパトス派の気象学説を後世へと伝えたのです。中世においてもこのテキストはギリシャ語、ラテン語、そしてアラビア語(ギリシャ語の詩がアラビア語に訳された数少ない例の一つ)で読み継がれ、12世紀にクレモナのジェラルドがプトレマイオスの『アルマゲスト』を翻訳して以降、ようやくその重要性を失っていきました。
さらに驚くべきことに、新約聖書の第五書『使徒行伝』では、聖パウロの口を通じて『パイノメナ』第五節の一節が引用されています。現在では、月面のクレーター「アラトス」に彼の名が刻まれています。
故郷へ還った遺骸と、長らく開かれなかった巨大な墓
アラトスは紀元前240年頃、ペラで生涯を閉じました。その遺骸は故郷ソロイへと移送され、偉大な詩人にふさわしい記念碑的な墓が築かれました。
墓は古代港湾のすぐ近く、旧市街の列柱のそばにあるオレンジ園の地下に埋もれています。トルコ紙フリエット・デイリー・ニュースは近年、発掘作業の難航を報じました。墓が現在のメジトリ市内の私有地に位置しているためで、用地買収には莫大な費用がかかるとみられるのです。
そのため、この墓は長きにわたり世界から隔てられ、その秘密を守り続けてきました。観光客にその存在を知らせるのは、トルコ語と英語で書かれた一枚の案内板だけでした。
追記:2020年10月4日、考古学者たちによってついに墓が発掘されました。
おすすめの書籍:『パイノメナ』(アラトス著)