第一次世界大戦という名称は決して大げさではなく、実に38か国が全大陸から公式に参戦し、自らを交戦国と宣言しました。そのうち20か国が連合国側(さらに9か国が軍事参加なしで支援)で、22か国が中央同盟国側でした。今回は、その中でもユニークな存在だったシャム遠征軍の役割に焦点を当てます。
シャムの国際的立場と参戦の決断
シャムは1939年までタイの国名であり、フランス領インドシナとイギリス領ビルマ・インドの間の緩衝国としての性格を持っていました。東南アジアで唯一植民地化を免れた国でありながら、イギリス帝国と密接な関係にありました。
多くの小国が大国に追随して連合国側につきましたが、実戦部隊を派遣したのはごくわずかです。中国、コスタリカ、キューバなどは宣戦布告のみにとどまりましたが、サンマリノ、ブラジル、ネパールとともに、シャム王国も自発的に参戦した数少ない国の一つとなりました。
ラーマ6世(ワチラウット国王)の狙い
主な理由は、国際法へのコミットメントと国家の近代化水準を世界に示すことでした。また、1889〜1909年に植民地列強に割譲させられた領土(ラオス、カンボジア、南部4県)の回復を視野に入れた戦略的判断でもありました。ドイツの植民地が東南アジアから遠かったことも、リスクを限定する要因となりました。
ワチラウット国王は、近代化の父チュラロンコン大王(ラーマ5世)の息子として、1910年に即位。父王の改革路線を継承し、1912年の軍事クーデター未遂後の求心力回復も図っていました。フランス政府から在欧シャム人(多くは留学生)を救急車運転手や整備士、パイロットとして徴用する提案を受け、志願制での協力を決断します。
遠征軍の編成と渡欧
1917年6月22日、シャムはドイツ・オーストリアハンガリー両帝国に宣戦布告。在留ドイツ人の追放、資産没収、国旗を現在のトリコロール(トーン・トライローン)へ変更するなど、国内のナショナリズムを喚起しました。
同年9月の募集で、航空整備士414名、輸送・衛生・整備などの支援要員870名、計1,284名の志願兵が集まりました。指揮官はベルギー・フランスで教育を受けたプラヤ・ピヤ・ビジャイ・ジャンリッディ将軍(1877年生)。1918年6月20日、輸送船「S.S.エンパイア号」でマルセイユへ向け出発し、5週間後に到着しました。
西部戦線での活動と文化的摩擦
クレマンソ首相やイギリス国王ジョージ5世の出迎えを受けましたが、当初はインドシナからの徴集兵と誤認されるなど、連合国側の無理解もありました。航空隊は各地の飛行場で訓練を続け、輸送隊はリヨンで追加訓練の後、前線へ移動しました。
8月初旬、先遣隊は第2次マルヌ会戦でドイツの攻勢阻止に加わり、9月中旬には残りの輸送隊がシャンパーニュ・ムーズ・アルゴンヌ方面で活動。航空隊は訓練が間に合わず実戦参加は叶いませんでした。
現場では通訳不足やフランス人将校の高圧的な態度(シャム人指揮官を無視して兵士に直接命令するなど)が原因で深刻な摩擦が生じ、シャム政府が帰国を検討する事態にまで発展しました。
ドイツ占領軍への編入と帰還
11月11日の休戦協定で緊張は緩和。フランス外務省の計らいで、シャム輸送部隊がラインラント=プファルツ州ノイシュタットに駐留する占領軍の一員として編入されました。国王は「戦士王」として誇りを表明し、国内の結束をアピールしました。
1919年7月まで駐留し、パリ、ロンドン、ブリュッセルの戦勝パレードに参加。航空隊は5月に先行帰国、輸送隊は9月に凱旋し、4日間の祝日と国葬級の歓迎を受けました。1921年にはバンコク中心部に記念碑が建立されています。
戦果と戦後の外交的成果
戦死者は19名(事故死とスペインかぜによる病死が半数ずつ)。敵前での戦死者はゼロでした。兵士たちはクロワ・ド・ゲール勲章を受章し、国王からラーマ勲章が授与されました。
最大の成果は、ヴェルサイユ条約締結国の一員となり、国際連盟の創設メンバーとして名を連ねたことです。ただし、失地回復は叶わず、ドイツ商船数隻の獲得にとどまりました。それでも、アジアの非植民地国家として対等な主権国家の地位を国際社会に印象づけることに成功しました。