古代の歴史

ジャスパー・マスケリン:第二次世界大戦でナチスを欺いた「戦争魔術師」の真実

1983年、デビッド・カッパーフィールドが生放送で自由の女神像を消失させ、世界を驚かせた。しかし、その約40年前、第二次世界大戦の真っ只中に、もう一人のイリュージョニストが壮大な「マジック」を実演していた。消失ではなく、無から都市を、そして軍隊を創り出すという、逆の発想による偽装工作だ。彼の名はジャスパー・マスケリン。英国が誇る魔術師一族の末裔であり、その奇術の技術を連合国の欺瞞作戦に応用しようとした男である。

魔術師の血統:マスケリン家の系譜

1902年、ロンドンに生まれたジャスパーは、生まれながらにして魔術師の血を引いていた。祖父のネヴィル、父のジョン・ネヴィルはいずれもプロのマジシャンとして名を馳せていた。祖父ネヴィルが魔術の道に入ったきっかけは、ヴィクトリア朝イングランドで流行していた心霊主義の旗手、ダベンポート兄弟のショーを観たことだった(彼らと協働したハリー・ケラーについては別記事で詳述している)。

1865年、ジョン・ネヴィルはダベンポート兄弟の看板トリック「音楽箱」に超自然的な力などないことを自ら再現して暴露し、当時所属していた第10コッツウォルド狙撃兵連隊を除隊してエンターテインメントの世界に身を投じた。彼は浮遊術など多くのイリュージョンを考案し(ロバート・ウーダンが昇華させ、ケラーが従業員を買収して盗んだとされる)、実用面ではコインロック式公衆トイレを発明。「1ダイム使う(spend a dime)」という用便の婉曲表現を生み出した人物でもある。

父ネヴィル(1863年生)は家業「マスケリンズ社」を継ぎ、マジシャンとしてより発明家として才を発揮。無線電信のパイオニアとしてマルコーニと対立し、その実演妨害を試みたほどだった。また『Our Magic』など魔術理論書を複数著し、魔術界の理論的支柱となった。

ジャスパーの登場:舞台から戦場へ

三人の息子のうち、末っ子のジャスパーが最も成功を収めた。父同様、1936年に著書『The Book of Magic』(魔術の書)を刊行し、手品から大規模ステージまで、知覚の主観性を突いたトリックを体系化。これは後の軍事欺瞞工作の予兆でもあった。

1937年にはパテ社製作の映画『The Famous Illusionist』でカミソリの刃を食べる演技を披露し、順風満帆に見えた。しかし戦雲が迫る中、彼は自らの技術がカモフラージュに役立つと確信し、王立工兵隊に志願。当初は懐疑的だった将校たちを、鏡と模型を用いてテムズ川をドイツ軍艦が航行しているかのように見せるデモンストレーションで納得させたという逸話が残る(真偽は定かでない)。

カモフラージュ開発訓練センターと「マジック・ギャング」

1940年、サリー州のファーンハム城(12世紀築城、2万㎡)に置かれた「カモフラージュ開発訓練センター」に配属される。そこにはローランド・ペンローズ(クエーカー教徒の歴史家・詩人、『ホームガードカモフラージュ手帳』著者)、スタンリー・ウィリアム・ヘイター(画家・版画家)、ジュリアン・トレヴェリアン(詩人・版画家)ら、シュルレアリスムの芸術家たちが集っていた。

マスケリンは後に「舞台で学んだ隠蔽と偽装の技術の方が遥かに実用的だった」と回顧し、トレヴェリアンも「コンクリートブロック製トーチカ(ピルボックス)の偽装に失敗していたが、夜には手品で我々を楽しませてくれた」と証言している。

北アフリカ戦線:Aフォースと「マジック・ギャング」

転機はダドリー・クラーク准将(英国コマンド部隊創設者)の登場だった。アーチボルド・ウェーヴェル将軍から北アフリカ戦線での欺瞞作戦立案を命じられたクラークは、カイロに「Aフォース」を編成し、マスケリンに14名からなる専門チーム「マジック・ギャング(The Magic Gang)」の指揮を委ねた。

任務は二つ。兵士への脱出技術指導、そして日用品に偽装した携帯ツールの開発だ。クリケットバットに隠したノコギリ、一見普通のトランプに印刷された地図など、後の「スパイグッズ」の原型となるアイデアを次々と具現化した。

アレクサンドリア港防衛とスエズ運河の偽装

1941年11月、ジェフリー・バーカス中佐(元映画監督、車両ネット偽装マニュアル著者)率いる「中東司令部カモフラージュ局」に合流。スティーブン・サイクス(コヴェントリー大聖堂礼拝堂装飾の画家)らと共に、海岸からミシェイファへの補給路である実在の鉄道線路からドイツ爆撃機の目を逸らすため、偽の列車を建造した。

しかし間もなくエジプト・アバシアの「カモフラージュ実験科」へ異動し、1942年2月に同科が解散すると、慰問マジシャンとして前線を回る身となる。この期間の彼の実質的貢献度については、今日でも議論が分かれている。

代表的なのは二つの作戦だ。一つはアレクサンドリア港防衛のため、数キロ離れたマリュート湾に「偽の港湾都市」を建設したこと(1941年夏)。もう一つはスエズ運河の探照灯を回転ストロボミラーで反射させ、ドイツパイロットの視界を妨害したことである。

「バーサム作戦」:ロメルを欺いた幽霊軍団

より著名なのは、スティーブン・サイクスと協働した「バーサム作戦(Operation Bertram)」だ。エル・アラメイン決戦を控え、エルヴィン・ロンメル率いるアフリカ軍団に「存在しない機甲師団が南から迫っている」と誤認させる壮大な偽装工作である。

600輌のダミー戦車、数千体の人形、兵舎、倉庫、果ては偽の石油パイプラインまで、手持ちの資材で一夜にして建設。無線で戦車エンジン音や通信傍受用のダミー信号を流し、敵の聴覚までも欺いた。結果、ドイツ側は南方に隠れた機甲部隊を警戒して兵力を分散。ヴィルヘルム・ヨーゼフ・リッター・フォン・トーマ将軍は後年、モンゴメリ元帥に「南からの機甲師団攻撃を恐れていた」と白状している。

評価の分かれる功績:自負か、それとも別の意図か

1949年刊の著書『Magic Top Secret』でマスケリンは自らをこの作戦の立役者と位置づけた。しかし多くの研究者は、彼がバーカス麾下にいた短期間に提案したアイデアが「参考にされた」に過ぎず、直接的な指揮・実行には関与していなかったと見ている。一部には「単独で戦争に勝ったと主張している」と酷評する声さえある。

一方で興味深い説もある。クラーク准将の指示で、あえて自分の役割を誇張させたのだという説だ。真の立案者たちをドイツ対諜報から守ると同時に、それまで軽視されていた欺瞞戦術の重要性を連合軍首脳に認識させるための「見せかけの主役」だった、という見方である。実際、ノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)では「幽霊軍団(Ghost Army)」が正式編成され、欺瞞戦術は体系化された。

真相は、2046年に機密指定解除されるまで不明のままである。

戦後:忘れられた魔術師の晩年

戦後、マスケリンは舞台に復帰し、ウェセックス魔術協会会長に就任。しかしテレビの普及でステージマジックは衰退し、息子のアリステアも家業を継がなかった。「ウォー・マジシャン(戦争魔術師)」の異名を得ながらも、その功績は公式に認められることはなかった。失意と借金の中でアルコール依存に陥り、ケニアへ渡って自動車教習所を経営していた最中の1973年、71歳で生涯を閉じた。


参考文献

White Magic: The Story of Maskelynes (Jasper Maskelyne) / The War Magician: The man who conjured victory in the desert (David Fisher) / Churchill's Wizards: The British Genius for Deception 1914-1945 (Nicholas Rankin) / Dazzled and Deceived: Mimicry and Camouflage (Peter Forbes) / The Palm Tree and the Swastika: The Odyssey of the Afrika Korps (Carlos Canales Torres, Miguel del Rey) / Wikipedia