ブラジルの軍事独裁政権とは、1964年から1985年にかけて軍部が政権を掌握した21年間を指す。ブラジル史上最も緊迫した時代の一つであり、自由の剥奪、政治的反対者への拷問、国家テロリズムの実践によって特徴づけられる。
1964年クーデター:軍事独裁の幕開け
軍事独裁は、1964年にジョアン・グーラール(ジョンゴ)大統領に対して決行された文民・軍事クーデターによって始まった。クーデターは3月31日、ジュイス・デ・フォーラ駐屯の第4軍管区がオリンピオ・モウラン・フィリョ将軍の指揮下で反乱を起こしたことに端を発し、4月2日には議会がグーラールの「職務放棄」を承認して完結した。軍部が主導したが、政治・経済エリート、メディア、米国政府(CIA経由でIBAD資金供与)など文民勢力の広範な支援があったため、多くの歴史家は「文民・軍事クーデター」と呼ぶ。
背景には、ゲトゥリオ・ヴァルガスの後継者と目されたグーラールが推進した基礎改革(農地改革・金融改革・教育改革など)があり、これが大地主・財界・中産階級の強い反発を招いた。冷戦下で「共産化」の懸念を抱いた米国も介入し、IPES(社会研究所)を拠点に倒閣工作が進められた。グーラールが1964年3月、中央駅集会で基礎改革断行を宣言すると、保守層は「神と家族と自由のための行進」(サンパウロ、約50万人)で対抗し、政権は孤立して崩壊した。
クーデター成功後、ラニエリ・マツィリが暫定大統領となり、4月9日に初代軍事大統領としてウンベルト・カステロ・ブランコ将軍が就任。制度行為第1号(AI-1)が発布され、最初の権威主義的措置が講じられた。
5人の「大統領将軍」── 正常化の仮面
21年間でブラジルには5人の軍人大統領が間接選挙で就任した(チリやアルゼンチンのような単一独裁者制ではなかった)。これは軍部が「正常な民主主義国家の体裁」を保ちたかったことを示すが、実態は権威主義的・暴力的支配だった。ジャーナリストのエリオ・ガスパリは「恥ずべき独裁」と評する。
- ウンベルト・カステロ・ブランコ(1964〜67年)
- アルトゥール・ダ・コスタ・エ・シルバ(1967〜69年)
- エミリオ・ガラスタズ・メディシ(1969〜74年)
- エルネスト・ガイゼル(1974〜79年)
- ジョアン・フィゲイレード(1979〜85年)
弾圧と権威主義── 国家安全保障ドクトリンの名の下に
軍事政権は国家安全保障ドクトリンを盾に、国家権力を集中させ、市民的・政治的権利を体系的に制限した。19件の制度行為(AI)が法の効力を持ち、議会閉鎖、政党解散(アレナとMDBの二党制へ強制再編)、政治権利剥奪、公務員粛清、州・市への連邦介入などを可能にした。中でもAI-5(1968年12月13日)は最も苛烈で、人身保護令状の停止、資産没収、非常事態宣言の大統領独断権限、無期限の議会閉鎖を定め、「鉛の時代」を開いた。
言論・出版・大学も厳しく統制され、数百冊の書籍が発禁、学生運動は監視・弾圧され、キャンパスに諜報員が潜入した。
拷問── 体系的な国家犯罪
独裁政権最大の恐怖は拷問であり、反体制派排除の主要手段だった。政治犯の子供を拷問して親を自白させるなど、無関係な市民も犠牲になった。手法はパウ・ジ・アララ(逆さ吊り)、電気ショック、パルマトリア(平手打ち器具)など多岐にわたり、フランス軍がインドシナ・アルジェリア戦争で用いた技法が輸入されたとの研究もある。肉体的苦痛だけでなく、独房監禁・家族への脅迫・子供の利用など心理的拷問も常態化し、推定約2万人が拷問を受けた。
抵抗運動── 政治・芸術・スポーツから武装闘争まで
21年間、軍部は絶え間ない抵抗に直面した。1964〜68年には学生・労働者の大規模デモが頻発し暴力鎮圧された。政治的野党として広範戦線(フレンチ・アンプラ)が1966年に結成された(カルロス・ラセルダ、ジュセリーノ・クビチェック、グーラールらが参加)が、1968年に法務省命令で解散させられた。マーシオ・モレイラ・アルベス議員が軍を「拷問者の巣窟」と罵った際、議会が処罰を拒否したことが強硬派の口実となり、AI-5発布へつながった。
合法的抵抗の道を閉ざされた一部は武装ゲリラに転じ、カルロス・マリゲーラ、カルロス・ラマルカらが指導したが、数年で壊滅した。芸術・文化・スポーツ界でも抵抗は続き、トロピカリア運動や「賛美歌」などが暗号化されたメッセージを発信した。
AI-5── 「鉛の時代」の法的基盤
AI-5は12条からなり、軍部がブラジルの自治体・州へ介入し、政治犯の人身保護令状権を剥奪し(政治犯の定義は独裁側が独断)、大統領が私有財産没収・解雇・非常事態宣言を自由に行え、国会を無期限閉鎖することを認めた。最新研究では、AI-5制定の口実となった一連の爆破事件が実は軍・治安機関の自作自演だった可能性が指摘されている(1967年12月以降)。
「緩やかな開放」と独裁の終焉
ガイゼル政権(1974〜79年)から「緩やかで安全な開放(abertura lenta, gradual e segura)」が開始された。軍部は完全な民主化ではなく、軍の利益に従う後継政権を残すことを狙ったが、小さな譲歩が民衆の民主化要求を爆発させ、経済危機(超インフレ・債務危機)も軍の支持基盤を侵食した。
強硬派の抵抗も激しく、1981年のリオセントロ爆破事件(労働者記念式典会場で軍工作員が仕掛けた爆弾が誤爆、工作員1人死亡)は軍部内部の分裂を象徴した。
開放の第一歩はAI-5廃止、政治犯罪恩赦法(1979年)、複数政党制の容認だった。これによりPMDB(旧MDB)、PDS(旧アレナ)、PT、PDT、PTBの5党が誕生した。フィゲイレード政権下で開放は制御不能となり、1982年に知事直接選挙権を奪回、1983〜84年には「今すぐ直接選挙を(Diretas Já)」キャンペーンが全国を席巻した(前回大統領直接選挙は1960年)。
議会で直接選挙憲法改正が否決され間接選挙が維持されたが、1985年1月の選挙人団投票で野党候補タンクレド・ネベス(副大統領ジョゼ・サルネイ)が軍候補パウロ・マリュフを破り、軍事独裁は終焉を迎えた。タンクレド就任前の病死によりサルネイが大統領となり、1988年新憲法制定へ道を開いた。
独裁が残した傷跡── 主な帰結
- 政権による殺害・行方不明 434名、アマゾン開発政策による先住民 8,000名以上 の犠牲
- 拷問被害者 推定2万人
- 政治権利剥奪 約5,000名
- 軍の犯罪を追及できない構造的汚職の温床化
- 労働権の大幅後退
- 社会格差の拡大
- 対外債務の急増、ハイパーインフレと経済危機
参考画像クレジット
[1] FGV/CPDOC