古代の歴史

ブラジルの独立:イピランガの叫びから帝政樹立までの歴史を徹底解説

ブラジルの独立は1822年9月7日に宣言され、ポルトガルとの植民地的な結びつきに終止符が打たれ、ブラジルは独立国家としての歩みを始めました。この独立は、ヨアンニン時代(ジョアン王政期)と呼ばれる一連の変革の積み重ねの結果であり、ペドロ・デ・アルカンタラ(後のペドロ1世)とジョゼ・ボニファシオが中心的な役割を果たしました。

ブラジル独立の背景と原因

ブラジル独立の大きな出発点となったのは、ポルトガル本国で起こったポルト自由革命でした。この革命は、ブラジルのエリート層とは異なる意図を持っており、この利害の対立こそが、宗主国との関係断絶を求める動きへとつながっていきます。以下、独立に至る経緯を順に見ていきましょう。

ポルトガル王室のブラジル移転とヨアンニン時代

1807年末、大陸封鎖令違反への報復としてフランス軍が侵攻したことを受け、ポルトガル王室はブラジルへの移転を決断します。これは事実上の逃避でしたが、王室はリスボンの行政機構全体をリオデジャネイロへと移し、ブラジルはポルトガル帝国の中心地となりました。

王室の移転に伴い、ブラジルでは数々の変化が起こりました。まず、当時まだ摂政だったドン・ジョアン(1816年以降にジョアン6世として即位)は、港湾開放令を布告し、友好国との貿易を認めたのです。

この決定により、それまで続いていた貿易独占は事実上終わりを迎え、ブラジル在住の商人たちは、当時世界最大の商業国であったイギリスとの直接取引を可能にしました。さらに1810年には通商航海条約が調印され、イギリス商品に対する関税引き下げが保証されました。

経済面にとどまらず、文化や科学の分野にも変化がもたらされました。大学、劇場、図書館などが建設され、当時の重要な知識人や芸術家たちがブラジルを訪れるようになったのです。

これらの変化はすべて、リオデジャネイロを宮廷と行政機関を受け入れられる都市へと変えるためのものでした。加えて、ブラジルは南米における拡張主義的な勢力として台頭し、シスプラチナ(現在のウルグアイ)と仏領ギアナがジョアン6世の命令により侵攻されました。

数多くの変革を経て、1815年にはブラジルは王国の地位へ昇格し、「ポルトガル・ブラジル・アルガルヴェ連合王国」が成立しました。これにより、ブラジルは植民地ではなく、ポルトガルと対等な存在となったのです。

この措置は、革命的な動きがブラジルで高まるのを防ぐというポルトガル側の思惑によるものでした。1810年代にはスペイン植民地で独立運動が相次ぎ、アメリカ合衆国という革命的な先例も存在していたためです。

ポルトガルの支配は、1817年のペルナンブコ革命のような不満の表明がありながらも、安泰に見えていました。しかし、1820年にポルトガル本国でポルト自由革命が勃発すると、状況は一変します。

ポルト自由革命とは

ポルト自由革命は、ナポレオン・ボナパルトの敗北後にポルトガルで起こった自由主義的な性格の革命でした。ポルトガルのブルジョワジーは、国家が直面していた経済的・政治的危機を終わらせる改革を求め、絶対主義の終焉を望んでいました。同時に、ヨアンニン時代にブラジルが獲得した経済的自由に対して、この階層は強い不満を抱いていたのです。

革命の勃発により、新憲法の起草と必要な改革を担うポルトガルのコルテス(議会)が設置されました。コルテスは直ちに、国王ジョアン6世のリスボン帰還と、ブラジルにおける貿易独占の復活を要求しました。

このポルト革命こそが、ブラジル独立プロセスの発端となりました。宗主国と植民地の利害がもはや和解不可能であることを示したからです。

ブラジル独立のプロセス

コルテスの二つの要求は当然ながらブラジルに大きな波紋を広げました。ジョアン6世への帰還圧力は非常に強く、ブラジル国内でも意見は分裂しました。一方、貿易独占の復活という第二の要求については、コルテスがブラジルを再植民地化しようとしていることを示すものとして、極めて否定的な反応が広がりました。

圧力を受けたジョアン6世は、1821年2月にポルトガル憲法への忠誠を誓い、同年4月に宮廷とともにリスボンへ向かいました。しかし、息子のペドロ・デ・アルカンタラはブラジル摂政としてリオデジャネイロに残留しました。

以降、ブラジルとポルトガルの関係は悪化の一途をたどります。コルテスはポルトガル帝国の全地域にリスボンの権威を押し付ける姿勢を示し、歴史家のリリア・シュヴァルツとエロイーザ・スターリングによれば、植民者たちはブラジルの代表者たちとブラジルそのものを見下した態度で接したといいます。

ポルトガル側の強硬な態度により、交渉による解決を望んでいたブラジルのエリート層の姿勢は抵抗へと転換していきました。こうしてブラジルでは革命的な気運が高まり、南東部のエリート層によって推進されていきました。

1821年9月から10月にかけて、コルテスの決定により両国の関係はさらに悪化しました。その内容は以下の通りです。

  • ブラジルへのポルトガル軍の増派
  • リオデジャネイロからリスボンへの諸機関の移転
  • 摂政ペドロの帰国要求

摂政帰国の要請に対する反発は非常に大きく、不満を持つブラジル人たちは「抵抗クラブ」と呼ばれる組織を結成しました。ここで、ペドロの帰国に反対する請願書が作成され、摂政は1822年1月に8000人分の署名が入った文書を受け取りました。

この出来事は1822年1月9日の「フィコ(私は留まる)の日」につながりました。この日、ペドロはポルトガルの命令に従わず、ブラジルに留まることを公に表明したのです。なお、当日のペドロの演説内容については、記録の食い違いがあるため、今日でも正確なところは不明とされています。

当時、ブラジルのエリート層の間では独立擁護の声が強まりつつありましたが、依然としてブラジルとポルトガルの利益を調和させる道を模索する者も多くいました。しかし、コルテスの強硬な行動がその道を閉ざし、大半のブラジル諸州を独立へと団結させることになったのです。

1822年5月、ポルトガルから送られた命令は、ペドロ自身の承認を得て初めてブラジルで有効となることが決定されました。これは「カンプリメント(遵守)」として知られています。さらに6月には、ブラジル憲法の起草を目的とした制憲議会の召集が決定されました。

独立プロセスは主にジョゼ・ボニファシオによって推進されました。彼は自らの考えを多くの決定事項やペドロの統治手法に反映させることに成功したのです。

そして、正式な決別の時が訪れます。8月末、ポルトガルからの新たな命令書がブラジルに届きました。その内容は相変わらず厳しいもので、コルテスはブラジルの「特権」を批判し、摂政の帰国を再度要求し、ジョゼ・ボニファシオを裏切り者と非難しました。この手紙を受け、ペドロの妃マリア・レオポルディナは臨時会議を招集し、そこでブラジルの独立が決定されたのです。

ポルトガルからの報告と臨時会議の決定は、ペドロのもとへ送られました。摂政はサンパウロへ向かう途中であり、使者パウロ・ブレガロは1822年9月7日、イピランガ川のほとりで摂政の一行に追いつきました。状況を知ったペドロは、いわゆる「独立の叫び」、すなわち「イピランガの叫び」を上げたと伝えられています。

この出来事はブラジル独立の画期的な瞬間とされています。しかしそれと同時に、一部の州がポルトガルへの忠誠を選んだため、独立戦争が始まりました。数年の戦争の末、ブラジルの独立は1824年にポルトガルによって承認されました。1822年から1824年の間、ブラジルはポルトガルに忠誠を誓う州を打ち破りながら、独立国家としての体制を整えていったのです。

独立後のブラジル

独立後、ブラジルは国家としての体制づくりを進めていきました。最初の課題は採用する統治形態の決定でしたが、ブラジルはアメリカ大陸の多くの国とは異なる道を選び、共和制ではなく君主制への移行を決めました。

南米において君主制を採用したのはブラジルだけです。ラテンアメリカ全体で見ても、君主制を経験したのはハイチとメキシコ、そしてブラジルのみでした。君主制には君主が必要だったため、ペドロはブラジル皇帝として即位し、ペドロ1世となりました。

ペドロ1世がブラジルを統治した時代は第一帝政期として知られ、その治世は権威主義に特徴づけられます。その象徴が、ペドロ1世の意向に沿って与えられた(押しつけられた)ブラジル初の憲法でした。皇帝は1831年に退位することになります。

参考文献

|1| SCHWARCZ, Lilia Moritz; STARLING, Heloisa Murgel. Brazil: A Biography. São Paulo: Companhia das Letras, 2015, p. 209.

|2| 同上, p. 210.