古代の歴史

ペロポネソス戦争――アテナイとスパルタが覇権を賭けた27年の戦い

ペロポネソス戦争とは

ペロポネソス戦争は、紀元前431年から紀元前404年にかけて、ギリシア世界の二大強国であるアテナイとスパルタが覇権を賭けて戦った大規模な戦争です。その背景には、ペルシア戦争の終結後に急速に台頭したアテナイの勢力拡大に対する、スパルタの深い警戒心がありました。

ペルシア戦争後の緊張関係

ペルシア戦争が終わると、ペルシア軍への勝利で名声を高めたアテナイの台頭を、スパルタは強く警戒するようになりました。アイギナやコリントスに促されたスパルタは、ペルシア軍によって破壊されたアテナイの城壁の再建を禁止します。しかしアテナイはこれに屈することなく、汎ヘラス同盟を脱退して独自にデロス同盟を結成しました。スパルタは開戦寸前まで踏み込むものの、最終的には思いとどまっています。

その後も両市の関係には緊張が残りましたが、概ね良好な状態が続きました。ところが紀元前462年、ヘイロタイ(奴隷階級)の大反乱に際して、キモン率いるアテナイの援軍が派遣されると、スパルタはこの援軍を突如として送り返します。ここに至って両市は決裂し、親スパルタ派であったキモンが陶片追放に遭ったことで、対立は決定的なものとなりました。

開戦への道

実際の戦闘は紀元前457年、コリントスの要請によって始まりました。以降、両市は勝敗を繰り返し、紀元前451年には5年間の和約が成立しますが、関係は依然として緊張したままでした。紀元前446年、メガラとエウボイア島の反乱が再び戦火を呼び起こすと、スパルタは同盟諸市を率いてアッティカを蹂躙しました。この際、攻勢を続けなかったスパルタ王プレイストアナクスは収賄の疑いをかけられ、亡命を余儀なくされています。

そして紀元前433年、ケルキュラ(コルフ島)をめぐる紛争が直接の引き金となり、ついにペロポネソス戦争が勃発しました。

開戦の決断

アテナイがスパルタの地位を脅かすことへの恐れはあったものの、すべてのスパルタ人が戦争に熱狂していたわけではありません。当時の誰ひとりとして、この戦争が27年間も続くとは想像していなかったのです。エフォロイ(監督官)のステネライダスは即時開戦を主張しましたが、アルキダモス王はこれに反対しました。民会の採決は僅差で、例外的な「移動投票」という手続きが用いられるほどでした。

後世の歴史的観点から見れば、サモスの離反によって強力な海軍力を失う紀元前440年以前に開戦しておくことが、スパルタにとって得策であったことは明らかです。また、歴史家トゥキュディデスの記述とは裏腹に、両市間の最後の交渉は、おそらく平和を維持できた可能性を秘めていたとも言われています。

ペリクレスの戦略と長期戦

現実の戦争は長期化しました。アテナイの指導者ペリクレスは、アッティカの農村地帯をスパルタ軍の略奪に任せる代わりに、人口を「長壁」に守られたアテナイ市内へ退避させ、持久戦に持ち込むという戦略を採用したのです。

スファクテリアの屈辱とニキアスの和約

紀元前425年には、スパルタにとって屈辱的なスファクテリアの惨敗が起きます。小島に取り残された120人のスパルティアタイ(平等者)の多くはスパルタの名家の出身であり、そのまま捕虜となりました。彼らを取り戻すため、スパルタは艦隊の引き渡しを余儀なくされます。これはスパルタ社会に大きな衝撃をもたらしました。「平等者」たちが、最後まで戦うことなく降伏する姿を目にしたのは、これが初めてだったのです。こうした経緯を経て、紀元前421年にニキアスの和約が結ばれました。

戦争の再燃とアテナイの敗北

しかしその後も緊張状態は続き、紀元前418年には、両市の領土外であるマンティネイアにおいてさえ衝突が発生しています。アテナイはスパルタが条約を破ったと判断し、紀元前415年に戦争が再開されました。アテナイは大規模なシケリア(シチリア)遠征を発動しますが、これは壊滅的な失敗に終わります。さらにデロス同盟のイオニア諸市が相次いで反乱を起こしたことで、スパルタは優位に立つこととなり、紀元前404年、包囲されたアテナイはついに降伏しました。

戦後処理と三十人僭主政

勝利したスパルタは、アテナイに対し、長壁の解体(両側それぞれ10スタディオンに及ぶ城壁)とペロポネソス同盟への加盟を強制しました。しかし、アテナイに与えるべき統治形態については、スパルタ内部でも意見が分かれます。民主政を終わらせるべきだという点では全員が一致していたものの、スパルタの監視下に置かれた急進的寡頭政を敷くべきか、それともスパルタ駐屯軍を置かないより穏健な寡頭政とすべきかという問題が残されていました。

アテナイ打倒の立役者であるリュサンドロスは「三十人僭主」による支配を強行しますが、もう一人の王パウサニアス1世は、その後三十人僭主を倒してその支持者とともに逃亡させ、アテナイに残留した穏健派の寡頭政治家たちを支持しました。しかし帰国後、パウサニアスは裁判にかけられます。無罪放免となったものの、その8年後、アテナイが再びスパルタに武器を向けた際に、今度は有罪判決を受けることとなりました。