古代の歴史

プブリウス・クィンクティリウス・ウァルス ― トイトブルクの戦いで軍団を失ったローマの将軍

プブリウス・クィンクティリウス・ウァルスとは

プブリウス・クィンクティリウス・ウァルス(紀元前46年頃~紀元後9年)は、ローマ帝国の将軍である。紀元7年、皇帝アウグストゥスは、ライン川右岸に位置する既に征服済みのゲルマニアの統治体制の整備を彼に命じた。しかし、ウァルスがゲルマンの慣習法に代えてローマ法を導入しようとしたことが現地の人々の反感を買い、住民たちの怒りを招く結果となった。

アルミニウスとの信頼関係

ケルスキ族の指導者アルミニウスは、次第にウァルスから信頼されるようになっていった。ゲルマン人たちはローマの支配を受け入れる姿勢を見せているかのように振る舞い、例えば部族間の争いの裁定をウァルスに依頼することも、ますます増えていったという。

トイトブルクの戦い

紀元9年の秋、アルミニウスは「ゲルマニア内陸部で反乱が起こった」とウァルスに報告した。ローマの将軍は直ちに、第17・第18・第19の三個軍団を率いて出撃し、ゲルマン人のアルミニウス率いる部隊もこれに随行した。アルミニウスはかつてローマ軍に仕えていたため、その戦術や組織の仕組みを熟知していた。沼地と森林が広がる一帯に到着すると、ゲルマン人補助兵たちはローマ軍から離脱し、他の部族と合流した。こうして始まったトイトブルクの戦い(「虐殺」とも呼ばれる)は、数日間に及ぶ激戦となった。

この戦場の所在地は、長年多くのドイツの歴史学者たちが探し求めてきた謎であったが、1989年に遺跡が発見され、確実に特定された。戦場はオスナブリュックの北約15キロメートルにあるカルクリーゼである。ローマ軍は壊滅的な打撃を受け、ウァルスは自らの剣に身を投げて自害した。彼の首は切り落とされ、遺体は損傷させられた。その首はついに皇帝アウグストゥスのもとへ届けられ、皇帝はこう嘆いたと伝えられる。「ウァレ、レギオネス・レッデ(Vare, legiones redde)」――「ウァルスよ、わが軍団を返せ」。

敗北がもたらしたもの

この大惨事は、カンナエの戦い以来となるローマ史上最悪級の敗北であった。これを受けてローマ人は、ゲルマニア方面の国境線をライン川沿いに再編成し、要塞化された境界線である「リーメス」の背後に守りを固めることで、帝国の防衛体制を立て直すこととなった。