フリウル公ジェロー・クリストフ・ミシェル・デュロック(Géraud Christophe Michel Duroc)
1772年10月25日、フランス・ロレーヌ地方のポンタ=ムッソンに生まれ、1813年5月23日、ザクセン王国ゲルリッツ近郊のニーダーマッカースドルフで戦死した。ナポレオン・ボナパルトの側近として、その生涯を帝国に捧げた軍人・外交官である。

- デュロックの肖像画
ボナパルトとの出会いとエジプト遠征
貴族の家系に生まれたデュロックは、1793年にシャロン士官学校を少尉として卒業した。まもなくイタリア方面軍に派遣され、そこで若き将軍ボナパルトの副官( aide-de-camp )となった。大隊指揮官に昇進すると、彼に従ってエジプト遠征にも参加し、現地で数々の武勲を挙げた。特にアッコ包囲戦(サン=ジャン・ダクール攻囲戦)では重傷を負いながらも奮戦し、その勇名を轟かせた。
1799年、デュロックはボナパルトとともにフリュート号でエジプトから帰国した。第一統領となったボナパルトは彼を副官として留め任用し、デュロックは旅団将軍へと昇進する。以後、彼は文字通り「ボナパルトの影」として行動を共にすることになる。
帝政期における要職
1804年の帝政樹立に伴い、デュロックは宮廷総督(宮殿長官)に任命され、皇帝家政部門の大官、さらに宮廷大元帥(グラン・マレシャル・デュ・パレ)の地位を獲得した。これらの要職は、皇帝の身辺や宮廷儀礼全般を統括する極めて重要な役割であった。
しかし、宮廷での職務は彼の軍務を妨げることはなかった。アウステルリッツの戦い(1805年)では、負傷したウディノの代わりに近衛擲弾兵を指揮し、1809年のアスペルン=エスリングの戦いでは、決定的な役割を果たす砲兵の集中運用を指導した。またデュロックは優れた外交手腕でも知られ、数多くの条約交渉を担当している。
最期とナポレオンの弔辞
1808年にはフリウル公爵に叙せられたデュロックだったが、1813年、ライプツィヒ戦役のさなか、シレジア(当時のプロイセン領、現在はポーランド領)のヴュルシェン付近で砲弾を受け、両脚を粉砕される重傷を負った。そのまま帰らぬ人となり、41歳の生涯を閉じた。
皇帝ナポレオンは、彼の遺骸をパリの廃兵院(アンヴァリッド)へ移葬することを決めたが、諸事情によりこの命令が実行されたのは1847年5月5日になってからであった。
デュロックの死の翌日、ナポレオンは皇后マリー=ルイーズに宛てて次のように書き送っている。
「フリウル公の死を深く悲しんでいる。彼とは20年来の友人であった。私は一度たりとも彼について苦情を言ったことはなく、彼は私に慰め以外の何ものをも与えたことはない。これは取り返しのつかない損失であり、軍において私が受けうる最大の損失である。」
デュロックの名は、パリのエトワール凱旋門(シャングリラ通り側の柱面)に刻まれている。