古代の歴史

ジャコブ=フランソワ・マルラ男爵 ― ナポレオン麾下で名を馳せた勇猛な騎兵将軍の生涯

ジャコブ=フランソワ・マルラ(Jacob-François Marulaz、通称マロラ)男爵は、1769年11月6日にプファルツ地方のツァイスカムで生まれ、1842年6月10日にオート=ソーヌ県のフィラン城で亡くなったフランスの騎兵将軍である。

出自と軍隊入隊

エステルハージ軽騎兵連隊の連隊子弟として育ったマルラは、プファルツ地方シュパイアー近郊の出身である。1792年4月に戦争が宣言されたとき、すでに14年の軍歴を積んでいたにもかかわらず、その階級はようやくブリガディエ(騎兵下士官)に過ぎなかった。しかし同年10月には軽騎兵少尉に昇進している。

ヴァンデ戦争と北方面軍での武勲

1793年にはヴァンデ反乱の鎮圧戦に従事し、ドル=ド=ブルターニュで負傷しながらも、ポントルソンの守備隊を降伏させ、ラヴァルを占領する活躍を見せた。続く1794年には北方面軍に転じ、9月15日のボクステルの戦いで500名もの捕虜を獲得する功績を挙げている。

ヘルヴェティア戦役とライン渡河

1795年初頭、第8軽騎兵(ユサール)連隊の騎兵中隊長となったこの無類の騎手は、その後も負傷と武勲を重ねていく。ヘルヴェティア方面軍で旅団長を務めた際には再び負傷したものの、1799年10月6日にはコサック騎兵を見事に撃破した。1800年にはライン方面軍に所属し、5月11日のライン渡河作戦で800名のオーストリア兵を捕虜とし、さらに5月27日にはランツベルクを攻略した。

将軍への昇進とポーランド戦役

名誉軍刀の授与を経て、1805年初頭に旅団将軍(准将)へ昇進したマルラは、ポーランド戦役においても再び栄光に輝いた。1806年12月26日のゴウィミンの戦いで負傷し、1807年1月4日にはオストロレンカを占領。アイラウの戦いでは自ら突撃を指揮し、1807年6月17日にはラビアウ付近で5000名のロシア兵を捕虜にするという大功を挙げたのである。

帝国男爵と晩年

1808年12月に帝国男爵に叙せられたが、翌1809年の戦役ではアスペルン=エスリングとヴァグラムの両会戦で新たに二度の負傷を負った。それでも1809年7月12日には師団将軍(少将)に昇進し、その最後の戦いとなったのは1813年12月31日のボーム=レ=ダムの戦いであった。

並外れた勇気を持つ剣士として知られたマルラ将軍の名は、今もなおパリのエトワール凱旋門に刻まれ、後世に伝えられている。