
概要
アンドリュー・ジャクソン(1767年3月15日 - 1845年6月8日)は、アメリカ合衆国の第7代大統領(在任:1829年 - 1837年)である。フロリダ軍政知事(1821年)、1812年戦争におけるニューオーリンズの戦いの指揮官、「ジャクソニアン・デモクラシー」と呼ばれる時代の立役者として知られる。1820年代から1830年代にかけてアメリカ政治を支配し、一般市民の政治参加拡大と政党政治の確立に大きく貢献した。草の根民主主義と個人の自由の擁護者として称えられる一方で、インディアン強制移住政策(涙の道)や奴隷制支持者としての側面から、その評価は現代において二極化している。「オールド・ヒッコリー(Old Hickory)」の異名を持つ頑強な指導者であり、西部開拓地(フロンティア)出身の最初の大統領でもある。その肖像は20ドル紙幣に描かれている。
生い立ちと青年期
誕生と幼少期
1767年3月15日、アイルランド・スコットランド系移民のアンドリューとエリザベス・ジャクソンの息子として、ノースカロライナとサウスカロライナの境界付近にあるワックスホー地区で生まれた。父親はアンドリューの誕生から3週間前に死去しており、一家は約2年前にアイルランドのキャリクファーガスから渡米していた。ジャクソン自身はサウスカロライナ州内のログハウスで生まれたと主張していたが、正確な出生地は議論の的となっている。
村の学校で不規則な教育を受けた後、13歳で独立戦争の地元民兵隊に加わった。兄ロバートとともにイギリス軍の捕虜となり、過酷な捕虜生活で飢えと天然痘に苦しんだ。イギリス将校の靴磨きを拒否した際に剣で切りつけられ、左手と頭に一生残る傷跡と、イギリスへの強い憎悪を抱くことになる。母親の尽力で釈放されたが、兄は間もなく死去、母親もコレラで亡くなり、14歳で孤児となった。ジャクソンは独立戦争の退役軍人として大統領になった最後の人物であり、ジョージ・ワシントンに次いで捕虜経験を持つ2人目の大統領でもある。
テネシーでのキャリア形成
戦後、法律を学び1784年にノースカロライナ州ソールズベリーで弁護士資格を取得。1788年にはテネシー地区(後のテネシー州)ナッシュビルの地方検事となる。民兵隊を率いてインディアンと戦い、彼らを辺境から追い払う軍事指揮官として頭角を現した。
1796年にテネシー州が連邦に加わると、州憲法起草委員を務め、連邦下院議員、上院議員を歴任したが、ほどなく辞職して私生活に戻る。テネシー州最高裁判事と民兵隊総司令官を兼ねたが、後者のみを保持し(1799年)、農場経営に専念した。1812年、米英戦争の勃発により、元判事・立法府議員・農場主だったジャクソンは、イギリス側が「北米のライオン」と呼んだほどの軍事的指導者として台頭する。
軍事的キャリア:1812年戦争とインディアン戦争
クリーク戦争とセミノール戦争
ジャクソンはクリーク戦争(1813-14年)と第1次セミノール戦争で名を馳せ、インディアンをミシシッピ川西岸へ強制移住させ、開拓地を確保した。南部ではこれらの戦争が米英戦争の一部を形成しており、イギリスがインディアンを扇動していると非難された(連邦政府の約束にもかかわらず、インディアンの土地を奪う口実ともなった)。
友人のエドワード・リビングストン(元ニューヨーク市長・検事)の法的支援もあり、連邦正規軍が手薄な隙に民兵を徴募し、クリーク族と戦ってアラバマ地域の土地を併合した(「アラバマ・フィーバー」と呼ばれる土地ブームのきっかけとなる)。1812年12月、民兵少将に昇進しミシシッピ方面軍を指揮。中央政府の理不尽な命令に抵抗して部下の信望を集め、この頃「オールド・ヒッコリー(堅いヒッコリー材のように頑強な意)」の渾名を得たとされる。
ホースシューベンドの戦い
1814年3月、アラバマのホースシューベンドでクリーク族の本拠を攻撃。チェロキー族が背後から挟撃したこともあり、クリーク族約700名を殺害し、自軍の死者49名という圧勝を収めた。講和条約により、約10万平方キロメートルの領土がアメリカ人の入植地として開放された。
フロリダ侵攻と軍政知事就任
同年後半、フロリダでセミノール族と交戦。スペイン領フロリダに逃れたクリーク族がスペイン総督から武器供与を受けていると知ると、政府の許可を待たずフロリダに侵攻。イギリス人スパイ2名を軍法会議で処刑し、ペンサコーラを武力制圧してスペイン総督・インディアン・イギリス人を懲罰した後、撤退した。1819年にフロリダ軍政知事に任命され、1821年のアダムズ・オニス条約によりスペインからフロリダが譲渡される(スペインが南米・カリブ海の領土問題で手一杯だったため、戦闘なき安価な譲渡となった)。
ニューオーリンズの戦いとジャン・ラフィット
1814年12月、米英戦争の最終決戦となるニューオーリンズの戦いに臨む。1814年12月24日のガン条約締結による休戦の知らせが届かぬまま、1815年1月8日に約8,000のイギリス正規軍と、カリブ海の海賊ジャン・ラフィットの部下を含む約4,000の寄せ集め部隊が激突。イギリス軍は死者386名、負傷1,521名、行方不明552名の大損害を出し、アメリカ側は死者55名、負傷185名、行方不明93名で勝利を収めた。この戦勝でジャクソンは国民的英雄となる。
戦後、フランスからの難民プランターらによる「ブドウとオリーブ植民地(綿花栽培が主体)」がアラバマ地域で認可され、綿花栽培地帯の拡大につながった。
大統領への道
1821年7月、フロリダ知事に選出されるが、再び農場生活に戻り14年を過ごした後、1829年3月4日に大統領に就任する。1824年大統領選では得票数・選挙人票ともに最多を獲得するも過半数に達せず、下院決選投票でジョン・クィンシー・アダムズが大統領となる(「汚職取引」とジャクソン派は反発)。1828年、普通選挙権が多くの州で導入された初の大統領選で、庶民の味方・インディアン征服者としてのイメージを武器に圧勝。フリーメイソン会員でもあった。
大統領在任期(1829-1837年)
就任とインディアン移住法
1829年3月4日就任。独立戦争・憲法制定に関わらなかった最初の大統領であり、西部農民と都市労働者双方の支持を集めた「庶民の友」。就任演説で「東部からインディアンを追い出し、その土地を占拠する」と宣言した。
1830年5月28日、インディアン移住法に署名。東部諸州のインディアンをミシシッピ川西岸(インディアン準州、後のオクラホマ)へ強制移住させるもので、「涙の道」と呼ばれる悲劇を生んだ。約8万人が移住させられ、1万人以上が道中で死亡。チェロキー族だけでも約4,000名(人口の25%)が強制行軍で命を落とした。最高裁が違憲判決を下してもジャクソンは執行を拒否し、ジョージア州がチェロキー領地を宝くじで払い下げるのを黙認した。この虐殺的政策への抗議として、多くのネイティブ・アメリカンは現在も20ドル紙幣の使用を拒否している。
銀行戦争と民主党全国大会
1831年5月21日、初の民主党全国大会で再選候補に指名される。1832年7月、第2合衆国銀行(中央銀行)の継続認可法案に拒否権を行使(「銀行戦争」)。同年12月、ホイッグ党候補を破り再選。
無効化危機と労働争議への軍事介入
関税政策を巡り、農業本位の南部(低関税派)と工業化する北部(高関税派)が対立し、サウスカロライナ州が連邦法の「無効化」を宣言。1833年、関税大幅引き下げで妥協し、州の権利が連邦政府に勝利する形で決着。
1834年1月29日、ワシントンとオハイオを結ぶ運河建設労働者のストライキを鎮圧するため、史上初めて連邦軍を労働争議に投入した。
暗殺未遂と債務完済
1835年1月、連邦債務が史上唯一完全返済される。同月30日、議会議事堂で初の大統領暗殺未遂事件が発生。犯人の2丁の拳銃がいずれも不発に終わり、ジャクソンはステッキで犯人を殴打したと伝わる(後年の銅版画に描かれている)。
1836年、再び中央銀行設立法案に拒否権。アメリカの中央銀行制度(連邦準備制度)が確立するのは1913年まで待たねばならなかった。
外交政策
仏英の対立が通商の障害となっていた。対仏賠償請求(2,500万ドル)を強硬に主張し、1836年頃に決着。1830年にはイギリス領西インド諸島との通商協定を締結。1837年、メキシコ支配下のテキサス共和国の独立を承認した。
国内政治の特色
「キッチン内閣」とスポイルズ制
職業政治家や既存制度を嫌い、公式内閣よりも側近グループ(「キッチン内閣」)で意思決定を行った。選挙協力者に高位公職を与える「スポイルズ制(論功行賞制)」を導入し、有権者拡大を各州に圧力をかけた結果、在任中に政治参加者が7倍に増加した。
市民権・少数者・移民政策
1829年、チェロキー領地で金鉱が発見され人口が増加すると、インディアン移住法に基づき強制移住を実行。最高裁の違憲判決を無視し、軍隊でミシシッピ川西へ強制行軍させた(「涙の道」)。
引退と最期
1837年、第2期満了でテネシーの自宅(ハーミテージ)に隠棲。「懐に80ドルしかない」と語って帰郷した。1845年6月8日死去。死因は1813年の決闘で受けた銃創による鉛中毒とされている。
私生活
妻レイチェルは1828年12月22日、大統領選当選から就任式の間に死去。ジャクソンが21歳の時に出会った彼女は、前夫との離婚が成立していないまま再婚しており、後に正式に再婚手続きを取った。このスキャンダルは選挙戦で激しく攻撃され、ジャクソンは政敵の誹謗中傷が妻の死を早めたと生涯恨み続けた。ファーストレディは姪のエミリー・ドネルソン、後に義理の娘サラ・ジャクソンが務めた。
逸話とエピソード
- 決闘(1806年): 地元紙で「臆病者」と罵ったチャールズ・ディキンソンと決闘。胸に銃弾を受け(心臓付近に一生残留)、相手を射殺した。
- 就任式の群衆: 就任式当日、支持者がホワイトハウスに殺到し、大混乱となった。
- 甥の活躍: 甥のアンドリュー・ジャクソン・ドネルソンは副官・秘書を務め、1856年大統領選で副大統領候補(フィルモア大統領のランニングメイト)となる。
- 「OK」の起源説: 1790年のテネシー州サムナー郡裁判記録で、ジャクソンが黒人奴隷売買契約書に「OK(オール・コレクトの誤記とされる)」と記したのが初出との説がある(諸説あり)。
- ラファイエットとの再会(1825年): ナッシュビルでラファイエット侯爵を迎え、かつてジョージ・ワシントンに贈った2丁の拳銃を返却された際、「自分の行いでなくても、国のために成すべきことで値する」と語り感極まったと伝わる。
歴史的評価と遺産
ジャクソンは「庶民の大統領」として民主政治の拡大に寄与し、強力な行政権を確立した点で評価される。同時に、インディアン移住政策という人道に対する罪、奴隷制擁護、中央銀行反対による金融不安招来など、負の遺産も極めて大きい。20ドル紙幣の肖像を巡る議論(ハリエット・タブマンへの変更検討など)は、アメリカが建国の理想と歴史的現実の狭間でどう向き合うかを象徴している。彼の時代は「ジャクソニアン・デモクラシー」として、現代アメリカの二大政党制と大衆政治の原点となった。