古代の歴史

ファショダ事件――ナイル川をめぐる仏英対決の舞台

ファショダ事件――ナイル川をめぐる仏英対決の舞台

ファショダとは

ファショダ(現在のコドク)は、スーダンのナイル川上流に位置する都市です。19世紀末、列強がアフリカ分割を進めるなか、この地は戦略上の要衝として注目されていました。

1898年、フランスのマルシャン遠征隊がこの地を占拠したことで、フランスとイギリスの関係は一気に緊張へと傾斜しました。これが歴史に名高い「ファショダ事件」です。

マルシャン遠征隊の到達

1898年7月10日、ジャン=バティスト・マルシャン大尉率いるフランス遠征隊が、中央アフリカからの長い行軍の末、ついにファショダに到達しました。フランスはここに拠点を築き、ナイル川流域への影響力確保と、西アフリカから東アフリカへ至る縦断的な勢力圏の構想を狙っていました。

キッチナー卿との対峙

翌8月、イギリスのキッチナー卿が2,000人を超える兵力を率いてナイル川を遡上し、同じくファショダに到着します。彼の目的は、マフディー派(マフディー国家)の打倒と、南はケープタウンまで至るイギリス勢力圏の連結でした。

キッチナーはマルシャンに対し退去を要求します。しかしマルシャンは「兵力の寡少をもってしても退くことはない」と拒否し、判断を本国政府に委ねました。両軍は一触即発の状態となり、この対立はまさに開戦事由(カースス・ベリ)となり得る重大な局面でした。

フランスの撤退

しかし、フランスには現地の自国民を救援する手段がありませんでした。さらに国内ではドレフュス事件がまさに頂点に達しており、世論は分裂し、政府は深刻な内政的弱体化に直面していました。

こうした状況のなか、アノトーの後任として外相に就任したデルカッセは、この間に大佐へ昇進していたマルシャンに対し、ファショダからの撤退を命じました(11月3日付の命令、11月7日に受領)。マルシャンは命令に従い、ファショダを明け渡しました。

事件の帰結とその後

1899年3月21日、仏英間の協定により、ナイル川流域全体がイギリスの勢力圏とすることが確認されました。フランスのアフリカ縦断構想は潰え、イギリスの「ケープ・カイロ構想」が優位に立ったのです。

この撤退はフランス世論に激しい衝撃を与え、「宿敵イギリス」のイメージが再び強まりました。この反英感情は、1904年に英仏協商(アンタント・コルディアル)が締結されても、直ちに消え去るものではありませんでした。ファショダ事件は、帝国主義時代の国際関係がいかに危うい均衡の上に成り立っていたかを示す象徴的な出来事として記憶されています。