
ウィリアム・バレット・トラビス(William Barret Travis、1809年8月1日 - 1836年3月6日、享年26歳)は、メキシコ共和国に対するテキサス革命において、アラモ砦の戦いでテキサス軍を指揮した人物です。わずか26年の生涯を、自由を求める闘いに捧げた彼の人生を振り返ります。
若年期
トラビスはサウスカロライナ州サルーダ郡に生まれた11人兄弟の長男でした。生年月日は1809年8月1日または9日とされています。9歳のとき、家族とともにアラバマ州スパルタの町へ移り住み、そこで教育の大半を受けました。学業の終わりには助教として働くことさえありました。
19歳のとき、教え子だった16歳のロザンナ・カトー(1812-1848)と結婚。夫妻はクレイボーンに移り、1829年に息子チャールズ・エドワードをもうけました。同年、新聞「クレイボーン・ヘラルド」を発行し、アラバマ州でフリーメイソンにも入会しています。その後、アラバマ陸軍第4師団第8旅団第26連隊の副官として入隊しました。
しかし1831年初頭、理由は今日まで謎のまま、トラビスは妊娠中の妻と幼い息子を残してアラバマを去り、テキサスへ向かいます。トラビスとロザンナは1836年1月9日に正式に離婚し、息子はトラビスの友人デヴィッド・エアーズに預けられました。ロザンナはその後、1836年2月14日にアラバマ州モンロービルでサミュエル・G・クラウドと再婚し、1843年にはテキサスでY・ポーティスと再婚しました(二人とも1848年に黄熱病で死去しています)。
テキサスでの活動
1831年5月、トラビスはメキシコ領州であったテキサスに到着しました。スティーブン・F・オースティンから土地を購入し、アナワックで弁護士として活動を始めます。やがて彼は、アメリカ人入植者とメキシコ政府との間で高まる対立の中で重要な役割を担うようになり、メキシコの支配に反対する小グループ「戦争派(War Party)」の指導者の一人となりました。敵対行為の開始を加速させたアナワック暴動の中心人物の一人でもあります。
テキサス革命は1835年10月のゴンザレスの戦いで幕を開けました。トラビスは11月のベハール包囲戦に参加し、12月19日には騎兵中佐に任官、テキサス軍の募集責任者となります。当時の軍は384名の将兵からなり、6個中隊に編成されていました。しかし階級の高さにかかわらず、トラビス自身が部下の勧誘に奔走しなければならず、志願者の確保には多大な苦労を強いられました。
アラモ砦の防衛
1836年1月21日、暫定政府の命令により、トラビスはすでに同地にいた120~130名の義勇兵を増援するためアラモ砦へ向かうよう命じられます。彼はこの任命に必ずしも満足しておらず、「閣下、どうか再考してください。これほど少数の部下を率いて指揮を執れという命令を」とスミス宛てに書き送っています。それでも2月3日、18名の増援を率いてサンアントニオに到着。2月12日には、現地にいる最上級将校としてアラモ砦守備隊の指揮官となりました。
テキサス陸軍のジェームズ・C・ニール大佐から正規兵の指揮権を引き継ぎましたが、ニールは病気の家族のもとへ戻らねばならず、20日以内に戻ると約束していました。こうしてジェームズ・ボウイ(1795-1836)が義勇兵を、トラビスが正規兵を指揮することになりました。
メキシコ軍は、将軍にして独裁者アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナの指揮の下、1836年2月23日にこの伝道所への攻撃を開始しました。ゴンザレスの町長アンドリュー・ポントン宛ての短い手紙の中で、トラビスは次のように訴えています。
「敵は圧倒的に数で勝っている……我々には人員と物資が必要だ……送ってほしい。現在150名がアラモを最後まで守り抜く覚悟でいる」
3月3日のテキサス会議宛ての手紙では、こう記しています。
「今この瞬間、私はこの砦を守り抜いて死ぬ決意を固めている。私の亡骸は、祖国の怠慢を責めるだろう」
包囲戦前の最後の手紙は、息子を預かるデヴィッド・エアーズ宛てのものでした。
「息子を頼む。もし我が国が勝てば、私は彼に莫大な財産を残そう。しかし、もし負けて私が死んだら、彼が持つのは『自分は祖国のために死んだ男の息子である』という記憶だけだ」
伝説によれば、トラビスは最後の突撃の3日前に部下たちを集め、砂の上に一本の線を引きました。そして「死ぬ覚悟があり、メキシコからの離脱を目指す新生テキサス共和国のために犠牲になる覚悟がある者は、この線を越えて自分のそばに留まれ」と呼びかけたといいます。すべての防衛者が線を越え、自らの運命を英雄的ではあっても確実な死へと委ねました。ただ一人、夜陰に乗じて逃げ出し運を試すことを選んだ者がいたとする伝説もあります。それはナポレオン戦争を経験したフランス出身の兵士、ルイ・ローズなる人物だったと言われています。
1836年3月6日、包囲30日目。トラビス、ボウイ、デイヴィ・クロケット、ジェームズ・ボンハムは、他のすべての防衛者(188~250名)とともに、四面からの総攻撃の中で戦死しました。メキシコ軍は激しい砲撃の後、塀を乗り越えて砦を制圧します。トラビスは戦闘序盤、北壁を防御中に討ち死にしたとされています。
サンタ・アナが砦内に入ると、サンアントニオの町長フランシスコ・A・ルイスに反乱指導者たちの遺体の確認を求めました。そして最後の一発の銃声から数時間後、サンタ・アナは竜騎兵一個中隊に命じ、テキサス人たちの遺体をすべて森へ運び出して焼却させたのです。その日の午後5時、トラビス、クロケット、ボウイの遺体は他の防衛者たちとともに焼かれました。
アラモ砦からの手紙
1836年2月24日、サンタ・アナによる包囲のさなか、トラビスは「テキサスの人々と世界中のすべてのアメリカ人へ」と題した手紙を書き残しました。
「同志の皆さん、同胞の皆さん。
私はサンタ・アナ将軍指揮下の千人を超えるメキシコ軍に包囲されています。24時間絶え間ない砲撃を受けてきましたが、一名の損害も出していません。敵は無条件降伏を要求し、砦が陥落すれば守備隊全員を銃殺すると脅しています。私はその要求に一発の砲撃で応えました。我々の旗は今も塀の上にはためいています。私は決して降伏しません。
自由のため、愛国心のため、そしてアメリカ人の誇りを形作るすべてのもののために、一刻も早く救援に来てくださるよう訴えます。敵は日ごとに増援を受け入れ、4、5日以内には兵力は間違いなく3,000~4,000名に達するでしょう。たとえこの呼びかけが届かなくても、私は可能な限り抵抗し続け、自らの名誉と祖国に対する義務を忘れない兵士として死ぬ覚悟です。
勝利か、死か。
ウィリアム・バレット・トラビス
中佐・指揮官」
この手紙は伝令のアルバート・マーティンに託されました。手紙の主眼は、アラモ守備隊への救援そのものよりも、テキサス軍を鼓舞し、合衆国を彼らの大義へ結集させることにありました。同時に、この一通の手紙はトラビスをテキサス革命の英雄へと押し上げることになったのです。
届かなかった希望
3月3日、伝令ジェームズ・ボンハムの到着により、トラビスは希望を抱かせる知らせを受け取ります。それはウィリー・ウィリアムソンの手紙で、増援が到着する予定だと記されていました。すなわち、サンフェリペから60名の義勇兵、ジェームズ・ファニン率いる300名の義勇兵と4門の砲、さらに300名の義勇兵からなる最後の部隊です。しかしその増援がアラモに届くことはなく、砦は3日後に陥落しました。