1945年3月、フランス領インドシナ北部の要衝ランソン。守備隊の一部は各拠点に分散配置され、クレール川支隊に所属する第10連隊第3大隊(R.M.I.G.)はロックビン(Loc Binh)方面へ機動演習中であった。ランソン周辺には日本軍約6,000~7,000人が集結しており、そのうち約1,000人はフランス軍の内部に潜み込んでいた。このため守備隊は、異例ともいえる高い警戒態勢を敷いていた。
繰り返される警戒警報
最初の警戒警報は、3月7日夜から8日にかけて発令された。これはサバティエ(Sabattier)将軍による警報発令よりも早いものである。カオバン(Cao Bang)へ移動予定だった1個大隊の出発は取り消されたが、実際には何も起こらず、警報解除が命じられた。ただし、ロックビン方面で演習中だった2個大隊は呼び戻されている。
続く8日夜から9日にかけても、トンキン師団経由で警戒警報が伝達され、将兵は再び戦闘配置についた。しかし今回は何も起こらず、翌朝には警報解除が布告された。
日本軍からの晩餐への招待
こうした経緯から、攻撃の切迫を信じる者はほとんどいなくなった。現地の人々の間に流れる不穏な噂があったとしても、である。何より、防衛責任者であるロベール(Robert)大佐やオフェル(Auphelle)住民官、その他の文民・軍の要人たちは、日本側から午後8時の晩餐に招待されていたのだ。大佐は出席を承諾するに先立ち、ハノイの総司令官参謀部の同意を得ていたという。
午後8時30分、奇襲開始
攻撃は予告なく、残酷なまでに突然始まった。午後8時30分頃、激烈な砲撃の後、マイファー(Maipha)宿営地(第10植民地行進歩兵連隊と第3トンキン狙撃兵連隊第4大隊が駐屯)はわずか数分で制圧された。日本軍の包囲網を突破し、クレール川支隊との合流に成功したのは、ごく一部の将兵だけであった。ランソンの北1kmにあるキルア(Ky Lua)の宿営地も、不意を突かれて無力化された。
午後10時頃にはG.I.宿営地も陥落した。日本兵はインドシナ人衛兵に変装し、ひそかに潜入していたのである。一方、各砦は勇敢に持ちこたえ、ヴァンメオ(Van Meo)やナムー(Na Mou)の副防御施設も攻撃側に大きな損害を与えた。城塞(シタデル)は長時間にわたり抵抗を続け、夜間には反撃さえ実施した。守備隊全員が、夜明けとともに米軍機の来援を信じていた。
援護なき守備隊、そして処刑
しかし悪天候のため、第14米航空軍は一切出動できなかった。逆に日本軍機は午後2時頃、「ネグリエ(Négrier)」砦を攻撃。同砦は3月10日の終日に至って陥落した。その他の抵抗拠点も次々と圧倒され、昼間のうちに陥落していった。
自軍の損害に激怒した日本軍は、戦闘終了後、負傷者を含む約300名の捕虜を処刑した。
夜のうちに捕虜となったルモニエ(Lemonnier)将軍は、部隊に対する停戦命令を拒否したため、斬首された。晩餐会の席で逮捕されたロベール大佐とオフェル住民官もまた、戦闘停止の命令を拒んだ末に銃殺された。
犠牲者のなかには、パッカード(Paccard)警視の名もある。そして忘れてはならないのが、一人のユーラシア系(欧亜混血)兵士である。東洋的な容貌ゆえに見逃されかけた彼は、「自分はフランス人だ」と大声で主張し、ブリエール・ド・リール(Brière-de-l'Isle)砦で同志たちとともに死ぬ道を選んだのである。
その後の推移
ディンラップ(Dinh Lap)は11日に攻撃を受け、その日のうちに陥落した。ロックビン、ニャトゥック(Nha Thuoc)、チマ(Chi Ma)各哨所の要員は、3月13日に中国領内へ脱出することとなった。