古代の歴史

途切れることのない戦い――ディエンビエンフー陥落までの55日

途切れることのない戦い――ディエンビエンフー陥落までの55日

インドシナ戦争の帰趨を左右することになったディエンビエンフーの戦い。包囲されたフランス軍守備隊にとって、それは攻撃と反撃が交互に繰り返される、息をつく暇もない日々の連続だった。

絶え間ない攻防

1954年3月30日の夜、激しい砲撃準備と「エリアンヌ」陣地下に仕掛けられた爆薬の炸裂に続いて、ベトミン軍第312師団と第316師団が、「ドミニク」と「エリアンヌ」を構成する5つの丘の陣地に攻撃をかけた。その後の戦闘は4日間に及び、その間、攻撃と反撃が絶え間なく繰り返された。4月2日には第308師団が「ユゲット」を攻撃。これに対しビジャール中佐は反撃に出て、800名の損害を払いながらもベトミン軍を撃退した。さらに別の攻撃では「エリアンヌ」の拠点の一つを奪還したが、守備隊の士気こそ高い水準を保っていたものの、全体的な戦況は好転しなかった。

ジアップ将軍は非常に大きな犠牲を払っていた。それでも彼がフランス軍の防衛線に、ほぼ自殺的とも言える攻撃を繰り返し仕掛けたのには、明確な政治的目的があった。ディエンビエンフーはすでに世界の注目を集める存在となっており、ジュネーブでは朝鮮問題とインドシナ問題を扱う会議が進行中で、インドシナに関する討議は5月8日の日程に組み込まれていた。もしジアップがその日までにディエンビエンフーを叩き潰すことができれば、会議に臨むベトミン側交渉団は、極めて有利な立場に立つはずだったのだ。

終焉は近い

5月1日午後10時、ベトミン軍は総攻撃を開始した。フランス軍に残された食料はあと3日分のみ。砲弾も155mm砲弾はわずか275発、105mm砲弾14,000発、120mm迫撃砲弾5,000発を数えるだけだった。攻撃の矛先は「クローディン」と「ドミニク」の残存陣地、そして「エリアンヌ」の双子の丘に向けられた。

5月6日、ジアップはついにカチューシャ(多連装ロケット砲)を投入した。ロケット砲を搭載した車両の音を聞いたフランス兵の一部は、一瞬、救援部隊が到着したのだと思ったほどである。5月7日の夜明けまでに、陣地は一辺約800mの四角形にまで縮小されていた。この最後の時間帯にも、ビジャール中佐は最後の戦車による反撃を組織した。指揮を執ったエルヴエ大尉は、骨折した腕を固定していたギプスを、この出撃のために自ら外して戦車に乗り込んだという。

55日間に及ぶ包囲戦の末、ディエンビエンフーは戦い抜いた末に陥落した。降伏ではなく、戦いながらの最期だった。総勢16,544名のうち、生き延びたのはわずか3,000名。3,000名以上が戦闘で命を落とし、さらに約10,000名が、捕虜収容所への長い行軍の途中か、その後の「再教育」の時期に死亡した。一方のベトミン軍も、戦死8,000名、負傷15,000名という甚大な損害を被った。だがジアップは、ジュネーブで待つ政治交渉団のもとへ、確かな「勝利」という成果をもたらすことができたのである。