1965年11月、ベトナム戦争において米軍と北ベトナム正規軍が初めて大規模に正面衝突したのが、イア・ドラン渓谷の戦いである。ハロルド・ムーア中佐率いる第7騎兵連隊第1大隊は、ヘリボーン作戦によって故の拠点地域のど真ん中に投入され、圧倒的多数の敵に包囲されながら戦い抜いた。ここでは戦闘終盤の攻防と、この戦いが後世に残した教訓を振り返る。
孤立した小隊の救出と夜明けの総攻撃

タリー大尉の部隊は妨害を受けることなく前進を続け、ついに孤立していた小隊を発見した。救出された兵士たちは、救援に駆けつけた仲間を涙ながらに迎えたという。彼らは戦死者と負傷者を担いで整然とゆっくりと着陸地帯へ後退し、この撤退で失ったのは敵狙撃兵による負傷者1名のみであった。
しかし翌朝、状況は再び緊迫する。味方の砲兵が防衛線の周囲に縦深のある弾幕を張り続けていたにもかかわらず、敵は巧みに陣地へ接近し、午前5時30分に第2大隊B中隊へ中隊規模の攻撃を仕掛け、さらに1時間後には二度目の攻撃を行ったのだ。
先制の一斉射撃と500メートルの掃討作戦
前日の苦い経験を繰り返さぬため、ムーア中佐は夜明けとともに大胆な策を講じた。陣地前方に広がる樹木、蟻塚、背の高い草むらに向けて、全線による1分間の一斉射撃を命じたのである。この先制攻撃は見事に的中した。騎兵たちからわずか数ヤードの距離にある木々から敵狙撃兵が次々と落下し、敵の攻撃は芽のうちにつみ取られた。
一時的な静寂の後、ムーアは陣地前方500メートルの範囲を徹底的に掃討することを決断する。ところが掃討作戦の最中、B中隊は予想外の事態に直面した。地面に倒れたまま残されていた北ベトナム兵の負傷者が、その場から手榴弾を投げつけてきたのである。B中隊は戦闘を続けながら防衛線内へ後退し、空軍の前方航空管制官は驚異的な精度で航空支援を誘導した。なんと500ポンド爆弾が、防衛線から25ヤード(約23メートル)以内の目標に投下されたのだ。
敵の退却と両軍の損害
この徹底した反撃により、敵指揮官チューの部隊はついに限界に達した。続く出撃で米軍が受けたのは軽微な抵抗のみであった。X-RAY着陸地帯の安全が確保され、第2大隊の他の中隊が着陸できる態勢が整うと、新たに到着した部隊は疲弊しきったムーアの部隊と交代した。第7騎兵連隊第2大隊B中隊および同大隊A中隊第3小隊は、ヘリコプターでX-RAY着陸地帯を離脱している。ムーア中佐はまもなく大佐への昇進を果たすことになる。
この戦闘での敵の損害は、確認戦死634名、推定死亡581名、捕虜6名と見積もられた。通常なら武器や装備を最後まで持ち去ると言われていた北ベトナム軍が、100丁を超える個人火器・集団火器を放棄したのである。その中にはマキシム重機関銃4丁のほか、ロケット発射筒や迫撃砲まで含まれていた。一方、アメリカ軍の損害は戦死79名、負傷121名であった。
イア・ドランが現代戦に残した教訓
イア・ドランの戦いが示した教訓は極めて明快だった。第一に、実戦経験の浅い部隊であっても、鍛え抜かれた敵相手に十分な戦果を挙げられるということだ。火力支援と増援の体制が整っていれば、戦闘力は大きく発揮される。しかし何よりも決定的だったのは、ヘリコプターの存在である。
ヘリコプターは、敵の聖域(拠点地域)の奥深くで包囲され、孤立していた大隊を、絶え間ない補給線と通信網を保つ能動的な部隊へと生まれ変わらせた。補給を受け入れ、増援を送り込み、負傷者を後送し、そして何より戦闘の主導権を握り続けることができたのだ。イア・ドランの戦いはまた、ヘリコプターが「壊れやすい戦争のおもちゃ」などではなく、現代戦において不可欠な兵器であることを歴史に刻んだのである。