古代の歴史

ダーダネルス海峡の大混乱――ガリポリ上陸作戦とケマル・パシャの反撃

1915年4月25日、夜明け前の早朝、上陸作戦が始まる。ここでは歴史の流れをしばらく脇に置き、生存者たちが「ガリポリの地獄」と呼んだ光景を詳しく見ていこう。ガバ・テペ方面へ攻め上ろうとするANZAC(オーストラリア・ニュージーランド軍団)の部隊に、共に同行してみたい。

夜明け前の出撃

戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」の通路に、集合を告げるラッパが響き渡る。夜はまだ明けきらず、冷え切った澄んだ空気の中、西の空には星がまだ輝いている。だが東の方、黒々とした海岸線の陰には、かすかな光が差し始めていた。

オーストラリア歩兵第10大隊が舷側に沿って配置につく。兵士たちはほとんど眠っていなかったが、動作は比較的整然と、しかも完全な静寂の中で進められた。海上では音が遠くまで伝わる。海岸はごく近く、約3,000メートル先に白波に縁取られて見えている。巨大な戦艦の揺れを和らげるため、機関は静かに逆転する。上陸用舟艇はすでに吊架に備えられており、各艇に少尉候補生が乗り込んで兵士たちの搭乗を指揮する。一艇が満員になると、操艇士官が出航を命じ、海岸へ向けて漕ぎ出していく。

水面に浮かんだ舟艇は、蒸気ピンネース(小型蒸気艇)に曳航を引き継ぐ。4隻一組の列が編成されると、船団はゆっくりと海岸へ向けて出発した。

岸から約50メートルの地点、ピンネースが前進できなくなる水深に達すると、係留索が解かれ、満載された舟艇は人間の積荷を乗せたまま自力で漕ぎ出す。作戦のこの第一段階は、まるで演習のように順調に見えた。敵が目覚めていることをうかがわせる物音も、動きも、灯りも一切なかったのである。

計画は崩れ始める

上陸開始から30分後、戦艦群は後方へ退避し、代わって7隻の駆逐艦が海岸と戦艦の間に錨を下ろした。これらの駆逐艦は、突撃開始20分後に攻撃を開始する予定だった第二波を乗せている。

ANZACを指揮するウィリアム・バードウッド将軍は、オーストラリア第1師団の4,000名を三つの連続した波に分け、約2,000メートルの正面に上陸させることを提案していた。この作戦の成功は、すべて速度と奇襲にかかっていた。

上陸を果たした部隊は内陸へ突進し、海岸から2キロメートル離れた三つの高台の頂上に足場を確保しなければならなかった。この第一目標を達成すれば、高所の拠点に守られた残りの突撃波は、比較的平坦な地形へ進んで、さらに3〜4キロメートル先に組織的な防衛線を構築することになっていた。初日の計画はそこまでだった。

ところが、不幸なことに、何ひとつ計画通りには運ばなかった。知られざる海流に流されたのか、それともトルコ側が後に主張するように、前日に設置された標識ブイが意図的に移動されていたのか、戦艦は上陸用舟艇を北寄りすぎる位置で発進させてしまったのだ。

その結果、最初の突撃波が接岸したのは、2キロメートルに及ぶはずの砂浜ではなく、アリ・ブルヌの要塞化された狭い岬の下、ほぼ登攀不可能な断崖が立ち並ぶ場所だった。ピンネースの艇長たちは誤りに気づいたが、もはや針路を変えるには遅すぎた。重く満載された舟艇を曳いたまま敵性の海岸沿いを迂回することなど、沈没を意味する危険な賭けであった。

「地獄」の始まり

最初のボートが岸に触れた瞬間、トルコ軍は猛烈な射撃を浴びせかけた。兵士たちは無秩序にボートから飛び降り、互いに押し合いながら、降り注ぐ弾雨から逃れようと海へ飛び込んだ。かなりの数の兵士は浜辺から一歩も出られなかったが、その仲間たちは敵の第一線防衛陣地に肉薄し、銃剣で守備兵を掃討することに成功した。そして重装備を脱ぎ捨てると、草の根をつかみ、岩の角で手を引き裂かれながら、内陸へ向かう斜面を登り始めたのである。

上陸地点では混乱が極点に達していた。舟艇は人でひしめきながら次々と到着し続ける。岸へ接近する彼らを、トルコ軍機関銃の俯瞰射撃が真正面から捉えた。多くのボートが失われ、乗員は死傷するか溺死した。一部の地点は敵の射撃から安全だったものの、兵士たちは再編成できる比較的平坦な場所を求めて、海岸沿いを徒歩で移動しなければならなかった。部隊の混在は解消不能だった。同じ中隊の兵士を集めることは不可能であり、各支隊に割り当てられた目標を確認することさえできなかった。

それでもこの信じ難い混乱の中、オーストラリア兵たちは午前6時頃までに最初の丘の頂上を占領し、第二の丘への浸透を開始した。左翼では圧倒されたトルコ軍が無秩序に後退しており、新たなオーストラリア増援部隊が損害なく上陸できる状況が生まれた。

こうして約4,000名が戦闘に従事し、先頭部し、先頭部隊は第二の稜線に達したところだった。午前7時、先遣の各班は第三の丘の頂上に到達する。そこから3キロメートル先、疲労で足を引きずりながらも、ANZAC兵たちの目には朝日に輝くダーダネルス海峡の海面が見えた。恐ろしい夜の時間を経て、勝利はもうすぐそこにあるように思われた。

浜辺の混沌

しかし、ああ、混乱は収まどころか、2キロメートル下方の上陸海岸でますます拡大していた。予定の2,000メートルではなく、幅数百メートルの狭い海岸に兵員を揚げることになった二個増援旅団の指揮官たちは、配備に何らかの秩序をもたらす可能性を完全に失っていた。

さらに負傷者たちが流れ込み始めたが、彼らを後送する手段はまったくなかった。不運な負傷者たちは、捨てられた荷物、弾薬箱、行き先も搬送方法も分からない食料や装備の山の間に、時には苦悶のうちに横たわり、上陸地点をいっそう塞いでいった。

そのうえ、内陸との連絡は伝令に頼るしかなく、起伏に富む地形では決して容易ではなかった。そして責任将校の誰一人として、攻撃がどこまで進んでいるのかを把握していなかった。

幸運な偶然にも、トルコ軍はこの混乱を利用しなかった。おそらく彼ら自身も、自軍の正確な状況を把握していなかったためだろう。それでも崖の上からは、トルコ軍機関銃がオーストラリア軍の戦列に向けて長い点射を浴びせ続けたが、弾丸は目標を大きく上空に外れ、榴散弾は浜辺にひしめく部隊に対しては騒音以上の害を与えなかった。しかし、艦隊と海岸の間を往復するボートについては話が別だった。彼らはトルコ砲兵にとって格好の標的となり、人員と装備を満載した軽舟の間に、灰色の水柱が次々と立ち上がった。

ニュージーランド旅団は増援として上陸し、オスマン帝国最前線部隊の敗走によって空いた左翼方面へ、オーストラリア軍の攻撃を延長する任務を帯びた。兵士たちは大きな損害なく上陸に成功したが、山岳砲兵を運ぶ軽舟は敵砲火の餌食となり、引き返さざるを得なかった。

ニュージーランド部隊はこうして自軍砲兵の支援なしに、トルコ軍榴弾砲の正確な射撃を受けながら攻撃することになった。やがて、インド山岳砲兵中隊の一つが有利な陣地へ登り込み、彼らに待望の支援を与えた。

地形の利用に長けたインド兵たちは、トルコ軍が彼らの射撃陣地を偵察する間に、砲を背負って前進する歩兵に随伴することに成功した。大きな前進こそ果たせなかったものの、ニュージーランド部隊は少なくとも、予想される反撃に備えて防御態勢を組織することができた。ちょうどこの頃、戦闘の帰趨を変えたかもしれない出来事が起こったのである。

ケマル・パシャの登場

ANZAC軍団が補給の確立と増援の前送に莫大な困難を経験していた一方で、トルコ軍もまた抵抗能力の限界に達していた。

彼らの砲兵弾薬は急速に枯渇しつつあり、アリ・ブルヌ上方の高地におけるオーストラリア軍の最初の成功は、トルコ軍の配置を大きく乱していた。言うまでもなく、右翼のパニックがもたらした心理的悪影響も無視できなかった。

第19師団司令部において、若き将軍ケマル・パシャは午前6時30分頃、1個大隊をアリ・ブルヌへ向けて出発させるよう命令を受けた。しかしケマルの見立てでは、耳に聞こえる限りますます接近しつつある火力線を安定させるには、1個大隊など到底足りなかった。そこで彼は受領した命令に背き、師団全体を海岸へ向けて行軍させ、自ら最初に出発準備の整った連隊の先頭に立った。

火力線付近に到着すると、ケマル・パシャは岩だらけの道での強行軍の後、まず部下に休息を与え、参謀将校4名を伴って近くの高地へ向かった。そこで彼は、オーストラリア軍の突撃波の前に無秩序に後退する歩兵部隊に行き会ったのである。

敵の砲火の下で将軍に出会うことなど、トルコ軍においてさえ珍しいことであり、この出現は部隊に深い感銘を与えた。ケマル・パシャは逃亡兵を呼び戻して再編成すると、弾薬が使い果たしていたため銃剣を着剣させ、稜線に現れ始めたオーストラリア軍の最初の戦闘群に対する即興の反撃に打って出た。

反撃は攻撃側の火力によって比較的容易に撃退されたが、それだけで彼らの前進は止まった。上陸以来初めて、ANZAC兵たちは主導権を手放し、防衛側の優位に屈することになったのである。ケマル・パシャは続いて、斜面に集結させた連隊を展開させ、すでに味方が掌握している高地線へ後退するオーストラリア軍を徐々に押し戻していった。

連合軍部隊はこのとき完全に指揮系統から切り離され、各小隊長がそれぞれの判断で行動する有様だった。対するケマル・パシャの兵士たちは、34歳の若さで国民的英雄への道を歩みつつある将軍に、戦闘線そのものにおいて直接指揮されるという計り知れない利点を持っていた。運命は、再び地球の裏側からやってきた連合軍兵士たちに味方しなかったのである。