
1943年5月、北アフリカの戦局は決定的な局面を迎えていた。連合軍の包囲網が狭まる中、枢軸軍の抵抗は崩壊へと向かいつつあった。本稿は、チュニジア戦役の最終段階におけるフランス軍部隊の東進と、歴史的な降伏の瞬間を描いた従軍記録である。
東進するオラン師団とアルジェ師団
12日の夜から13日の日中にかけて、オラン師団とアルジェ師団は東へ強力な支隊を推し進め、「武装都市」と呼ばれたチュニスのイギリス・フランス両軍との連携を完成させようとしていた。
アルジェ師団では、コンヌ将軍が12日、ズリバ=ブーフィシャの軸線に沿って、ラトゥール大佐率いるモロッコ・タボル群からなる掃討支隊を出撃させた。ズリバの村は夕方には制圧された。しかし、イタリア第125歩兵連隊(キアラモンティ大佐)はその見事な抵抗ぶりが特筆されるほど頑強で、村を見下ろすジェベル・ズリバの陣地を13日午前10時まで持ちこたえた。その後、掃討支隊はブーフィシャにおいてイギリス軍との連絡を確立することに成功した。
一方、オラン師団では、サント=マリー=デュ=ジットから出発したル・クートゥルクス装甲群が13日の正午にジェラドゥーへ到達し、ラルミナ将軍指揮下の自由フランス第1師団(D.F.L.)と接触を果たした。
相次ぐイタリア軍高官の投降
両師団のこれらの進撃には、まさに「センセーショナルな捕虜」が伴っていた。オラン師団では、12日夜から13日にかけて、サント=マリー=デュ=ジットのボワソー将軍司令部に、極めて重要な使節がもたらされた。それは、かつてロンメルが率いた軍を継承したイタリア第1軍を指揮するメッセ将軍の参謀長マンチネッリ将軍であり、同軍のドイツ部隊を代表するマッケルト大佐を伴っていたのである。
アルジェ師団でも、イタリア第21軍団(イタリア「スペツィア」「ピストイア」両師団およびドイツ第164歩兵師団)の参謀長が、師団の掃討支隊のもとに出頭した。
さらに、掃討支隊の一翼を担う第59グームは、道路上で近200台のトラックからなる枢軸軍の縦隊――ドイツ兵とイタリア兵を満載した大部隊――を捕捉した。13日ただ一日で、約6,000名の捕虜が後方へと送り出されたのである。
静寂に包まれたザグワンの谷
アルジェ師団はザグワン山の南斜面を望むサウアフ方面の道路上で足止めされていた。砲撃の雨嵐なしには渡ることさえできなかった谷間は、今や驚くべき静寂に包まれていた。兵士たちの視線の先には、ザグワンの南の支えとなるジェベル・レリがあった。5月10日の正午過ぎ、ブヴァティエ大隊(第9アルジェリア狙撃兵連隊 III/9 R.T.A.)の突撃が、まさにこの岩壁によって弾き返されたのだ。
そして5月12日のこの夜、わずか2日後には、恐れることなくザグワンの雄峰を眺めることができるようになっていた。標高1,295メートルの頂から、敵砲兵の観測員たちは、まるで手で置くように谷間や渓谷へ砲弾を着弾させていたからだ。「ザグワンから見られているぞ!」――我々は幾度となくそう繰り返してきた。砲声が止み、武器が置かれた今、休息する猟兵たちは、あたかも沈没船から逃げ惑うネズミのように、あらゆる小道を通って山地から降りてゆくドイツ兵・イタリア兵の長い行列を、遠くに眺めていたのである。
「無敵」を謳われたアフリカ軍団の最期
翌5月13日、ケルツ将軍の第19軍団が最終的に数えることになる34,500名の捕虜のうち、すでに約15,000名のドイツ兵・イタリア兵が、灼熱の太陽の下、ポン=デュ=ファスの小さな廃駅の背後、有刺鉄線で粗末に囲まれただけの広く乾いた野原に集められていた。そこにあったのは、無敵を謳われたアフリカ軍団の残骸であった。
モーニエ=コンドロワ大佐は、荒涼としたジェベルで冬の風雨の中を数ヶ月にわたり苦闘してきた第9R.T.A.の将校と猟兵たち全員に、この光景を目の当たりにさせた。自らの努力と犠牲が実を結んだ、その具体的な成果を見せるために。
チャーチルへ届けられた勝利の電報
5月13日午後1時、ザグワンの岩々がアフリカで発射された最後の砲声の反響を響かせてから数時間後、アレキサンダー将軍はウィンストン・チャーチル首相へ次のような電報を打電することができた。
「首相よ、チュニジア戦役が終了したことを報告する義務があります。敵の一切の抵抗は停止しました。我々は北アフリカ沿岸の支配者となりました。」