
自信を取り戻した第25軍の将校たち
マレー侵攻の延期を真剣に考える者は一人としていなかった。むしろ一部の将校たちは、準備のこの段階で「もしも」という条件を付け加えること自体を批判し、それは部隊の士気に悪影響を及ぼしかねないと考えていた。翌朝、山下奉文中将が若手将校たちを召集し、軍司令官として最初の命令を下すと、自信はたちまち戻ってきた。将校たちの感動は頂点に達し、涙を流す者さえ現れた。彼らにとってその日は、1914年のプロイセン将校たちにとっての「Der Tag(その日)」のようなものだった。長年夢見て、備えてきた日――ひとことで言えば、英国を打ち倒す機会を神々から授かった日なのである。彼らは指導者への、作戦への、そして速やかな勝利への確信を完全に抱いていた。士気は絶好調であった。
日本にとってのマレーの価値
アメリカによる経済封鎖が強まるにつれ、日本にとってマレーは計り知れない価値を持つようになった。同地域は世界のゴム生産量の38%を占めるのみならず、錫(スズ)については世界の58%を産出していた。さらに、細長いマレー半島の南端にはシンガポール島が位置し、そこは英国最大級の海軍基地であり、極東における英国勢力の要であった。
開始わずか3ヶ月の計画立案
興味深いことに、大本営がシンガポール攻略の計画を本格的に練り始めたのは、わずか3ヶ月前のことだった。陸軍が熱帯における作戦やジャングル戦の問題の研究に着手したのも、1941年1月になってからである。その時期、台湾に「台湾軍研究部」と呼ばれる小規模な研究委員会が設置された。その責任者となったのが辻政信大佐である。小柄で強権的、そして細部にまで厳しいこの人物は、その「出世主義」ぶりゆえに、ほぼすべての将校から嫌われていた。
しかし辻には並外れた直観力と、物事を素早く吸収する驚くべき能力があった。10人の補助者たちの協力を得て、彼は解決すべき諸問題を短期間のうちに掘り下げていった。
熱帯戦に向け、陸軍の戦術と戦略をどのように改訂すべきか?
どのような被服・装備が必要か?
通信はどのように組織すべきか?
暑い国における衛生・健康管理、傷病者の救護の問題をどう解決するか?
現地住民とはどのような関係を築くべきか?
「昼寝の時間さえ講義に充てた」
辻はこう振り返っている。「私たちはあらゆる分野の専門家を引っ張り回した。昼寝の時間までも講義に充てたが、出席者は常に熱心だった。この目立たないグループは、間違いなく当時、熱帯戦に関する最高の権威であった」
面談から導き出された3つの結論
さまざまな将校との面談を通じて、辻は作戦目標について3つの結論を導き出した。以下は本人の言葉である。
- シンガポール要塞は臨海正面では堅固だが、ジョホール州に面した背後は事実上無防備である。
- R.A.F.(英国空軍)の戦闘力に関する新聞報道は誇張であり、純然たるプロパガンダである。
- マラヤ駐留の英軍は5~6個師団、約8万人だが、そのうち欧州人はおそらく50%未満にとどまる。
地形資料ゼロからの出発
驚くべきことに、日本陸軍にはマレーに関する地形資料がほとんど皆無だった。この空白を部分的に埋めたのが、一時期当地の日本外交当局に出向していたクニタケ・テルンド少佐という人物である。道路、河川、橋梁を簡潔に調査した結果、彼はシンガポールとタイ国境を結ぶ主要道路上に、少なくとも250の橋が存在すると報告した。これは、不完全な地図をもとに辻が想定していた数をはるかに上回るものだった。
ここから即座に明白になったのは、橋の復旧に時間がかかるほど、イギリス軍にジョホールとシンガポールの防衛強化の猶予を与えることになる、という点である。