古代の歴史

チャーチルと参謀本部――マラヤ防衛をめぐる攻防

イギリスは、1931年の満洲事変の頃から、日本軍によるマラヤ攻撃の可能性を検討していた。翌年にはシンガポールの防衛態勢が発動されたものの、海軍基地の運命がマラヤ半島全体の運命と密接に結びついていることに軍当局が気づいたのは、ようやく1937年になってからであった。

ドビー将軍の先見的な分析

その年、マラヤ駐留軍司令官ドビー将軍は、この新しい視点から問題の研究に着手し、敵が東海岸に上陸する可能性を検討した。10月、彼は従来の通説に反して、北東モンスーン期であっても上陸作戦は十分可能であることを陸軍省に報告した。さらに彼は、悪天候による視界不良が航空偵察を著しく制限するため、敵はむしろこの時期(10月から3月)を選ぶだろうと考えていたのである。

ドビーはあえて日本側の立場に立って思考を重ね、日本は前段階としてタイの飛行場を奪取するだろうと予測した。また、上陸地点はタイのソンクラーとパッターニー、そしてマラヤのコタバルになると見ていた。そうなれば、シンガポールの安全は北マラヤとジョホールの安全いかんにかかっており、これらの地域の防衛強化こそ最優先されるべきだ、という結論に至った。
しかし、長い議論の末に出たイギリス政府の対応は、マラヤ駐留部隊への1個大隊の追加派遣と、防衛工事用としての6万ポンドの支出にとどまった。

空軍中心の防衛構想

これらの決定が実行されるよりずっと前に、情勢は一変していた。日本は攻勢を中国南部へ拡大し、イギリスはドイツとの戦争状態に突入していたのである。この危険な新局面を受けて、シンガポールの海・陸・空の各司令官は、ロンドンの参謀本部の要請に応じて報告書を作成した。

彼らの想定の根幹をなしたのは、艦隊がない以上、島の主たる防御力は空軍であるという判断であった。イギリス軍当局を特に懸念させたのは、日本によるタイ占領の可能性を開戦事由(casus belli)とみなさないという最近の政治的決定だった。その結果、イギリス側が対応措置を講じられるようになる前に、日本はマラヤ北部の一部を自由に占領しうることになった。

空軍(RAF)の役割は、海上で攻撃者を撃退し、上陸の試みを未然に阻止することとされた。一方、陸軍は航空基地と海軍基地を防衛し、空軍をすり抜けた日本軍を掃討する。したがって空軍にはあと200機の追加が必要であり、それによって31個飛行隊、総数566機の編成が可能になるはずだった。責任ある指導者たちは、この規模の戦力があればタイ方面からの攻撃のみならず、海上からの侵攻をも食い止められると確信していた。それはまた、陸軍を23個大隊まで削減できることも意味していた。

ブルック=ポパムの計画とチャーチルの抵抗

この報告書が正式に検討される前に、ロバート・ブルック=ポパム空軍大将が極東最高司令官に任命され、12月7日、自らの計画を参謀本部に提出した。彼の考えでは、正しい解決策は、極東におけるイギリスの防衛力を、日本がいかなる侵略の試みも無益だと悟るほど強固なものにすることであった。マラヤ半島全体を防衛しなければならず、そのため陸軍は、マラヤ駐留部隊の各司令官が定めた空軍の方針に沿って協力することになった。

空軍に566機を配備するなど論外で、期待できたのはせいぜい336機、しかもこの数字に達するのは年末になってからであった。彼らは陸軍増強の必要性を認め、インドから歩兵師団をもう1個送ることを決定した。ところが、この決定は、敏感な地域からの兵力引き抜きに終始反対の姿勢を崩さなかったチャーチルの承認を得ることができなかった。1941年1月13日、彼はこう書き記している。
「私はこのような大規模な戦力分散を承認した覚えはない。議事録を調べれば、私がむしろその逆を望んでいたことがわかるはずだ。現在の政治情勢は、極東に大規模な戦力を維持することを求めておらず、わが空軍の戦力もそれを許容するものでは決してない」
しかし参謀本部委員会は譲らなかった。4月には第9インド師団が1個旅団を欠いた編成で到着し、第8オーストラリア師団の増強が図られたのである。

それでも不十分だった戦力

大幅に改善されたとはいえ、状況は依然として満足のいくものから程遠かった。8月7日、マラヤ駐留軍司令官パーシヴァル将軍は、マラヤの防衛には6個師団、2個戦車連隊、さらに対戦車部隊と高射砲部隊の存在が不可欠であると陸軍省に伝えた。同じ頃、ブルック=ポパムも空軍の所要について独自の見積もりを示した。すなわち、爆撃機4個飛行隊と戦闘機2個飛行隊である。
これらの数字はすべて、「もし日本軍が攻撃してくれば、3個師団を戦闘に投入する」という想定に基づいて算出されたものであった。