1942年2月15日午後2時、山下奉文中将のもとにイギリス軍降伏の報せが届いた。彼はその日の日記にこう記している。
「あらゆる欺瞞から自らを守りたい一心で、英国軍司令官本人が直接来るよう命じた。使節団は戻り、午後5時15分、パーシバル中将が参謀将校2名と通訳のワイルド少佐を伴って到着した。」
対面する二人の司令官
ブキ・ティマのフォード自動車工場。日本側通訳の菱刈少佐による紹介の後、両司令官は握手を交わし、テーブルを挟んで向かい合う形で着席した。そこで(日本側の記録によれば)次のような場面が展開された。
「簡潔に答えよ。無条件降伏を受け入れるか?」
「日本兵の捕虜はいますか?」
「いない。」
「日本人の民間人は?」
「いません。全員インドへ送りました。」
「結構。では、この降伏文書に署名されたし。」
パーシバルは文書の半分ほどを読み進めたところで、「明日の朝まで待っていただけますか」と尋ねた。山下は怒りをあらわにして答えた。
「今ここで署名しなければ、戦闘を続行する。私が知りたいのはただ一点、無条件降伏を受け入れるのかどうかだ。イエスか、ノーか。」
パーシバルは青ざめ、通訳に向かって低い声で話し始めたが、山下はそれを遮り、じれったげに身振りで促して叫んだ。
「イエスか、ノーか!」
パーシバルは通訳に一瞥をくれ、それから答えた。
「イエスです。」
「結構。日本時間の午前10時に敵対行為を停止する。」
市民の安全をめぐる約束
パーシバルはさらに、部隊および市民への降伏発表に時間が必要なため、日本軍の市内進駐を翌朝まで延期してほしいと要請した。山下がこれに同意すると、次のようなやり取りが交わされた。
「市民、そしてイギリス兵やオーストラリア兵の命を尊重することを誓うか?」
「ああ、その点は安心してよい。絶対に保証する。」
降伏文書への調印は午後6時10分に行われた。こうして、イギリス史上最も惨憺たる戦役の一つが幕を閉じた。開戦以来、わずか73日間の出来事であった。
損害と、二人の司令官のその後
マラヤおよびシンガポールにおける英・豪・印軍の損害は、死傷者9,000名、捕虜13万名に達した。一方、日本軍の損失は戦死者約3,000名を含む9,824名であった。
パーシバルは日本軍の手による3年間の捕虜生活を生き延び、1966年に世を去った。勝利の直後にシンガポールから呼び戻された山下は、東條英機との不和を恐れていたが、その懸念が現実となることはなく、大戦末期にはフィリピン方面の日本軍を指揮することになる。
1946年2月、山下は戦犯法廷に立たされ、死刑を宣告された。処刑は同年2月23日に執行されている。死の直前、彼はこう書き残した。
「私は終戦まで、自らの能力の限りを尽くして義務を果たしたと信じている。今、死の時に臨み、神の御前にあって、恥じることは何ひとつない。私を弁護してくれたアメリカ人将校たちによろしく伝えてほしい。」
容易すぎた勝利が招いた過ち
今日、日本の軍事史家たちは、マラヤとシンガポールでのあまりにも容易な征服こそが、後の無謀な性急さの原因だったと指摘する。すなわち1944年、ビルマ攻勢におけるインパールおよびコヒマでの作戦である。日本軍は、イギリス軍が他の作戦地域で二度と立ち上がって抵抗することはないと早合点していた。しかし彼らは、その残酷なまでの正反対を突きつけられることになったのである。