本記事について
アドルフ・ディルク准尉は1942年当時、第2駆逐航空団第III飛行隊(III./ZG 2)に所属するパイロットでした。同飛行隊は、ルフトヴァッフェで初めてFw 190A-4戦闘爆撃機により完全装備された部隊です。ここでは、フランスおよび北アフリカにおける戦闘爆撃機パイロットとしての体験を語ります。
チュニジアの枢軸軍降伏直前に負傷した彼は、その後も戦闘に復帰しましたが、負傷した腕の障害のため前線を退くことになります。その後はフォッケウルフ社のテストパイロットとなり、工場から最前線の部隊へ数多くのFw 190を届ける任務に就きました。
本記事は、アルフレッド・プライス著『Focke-Wulf at War』(Ian Allan Ltd.刊、英国)からの翻訳です。
Fw 190A-4への機種転換
1942年8月、私がパイロットとして所属していたIII./ZG 2は、Fw 190A-4への機種転換訓練のためウィーン近郊のパルンドルフへ移動しました。我々は、この機種で完全装備された最初の戦闘爆撃飛行隊(Jabo Gruppe)となったのです。
ロシア戦線で使用してきたメッサーシュミットBf 109Eと比べると、Fw 190はまさに格段の進化でした。より速く、より運動性が高く、より頑丈で、野戦での整備が容易であり、特に爆弾を搭載した状態でも地上での取り回しが安定していました。あらゆる面で戦闘爆撃機の任務に適した機体だったのです。
約1か月に及ぶ転換訓練を終えた9月、飛行隊はボルドー近郊のコニャックへ移動し、艦船攻撃に特化した特別訓練に着手しました。連合軍が上陸作戦に向けて戦力を集結させていることは以前から明らかであり、我々の部隊は対侵攻任務を担うルフトヴァッフェ部隊の一つだったのです。ジロンド川河口に座礁した旧フランス駆逐艦が標的として使われ、低空攻撃や急降下攻撃の訓練では、セメントを詰めた250kg級または500kg級の演習爆弾を投下しました。さらに、ボルドー周辺に張り巡らされた防空気球網を突破する訓練も行いましたが、これがなかなかスリリングでした。
カンタベリー空襲とシチリア島へ
10月、飛行隊で最も経験豊富なパイロットたちがリール近郊のメルヴィル飛行場へ派遣され、私もその一人でした。そこで我々はJG 2とJG 26の戦闘爆撃中隊に合流し、イギリス空軍(RAF)によるドイツ都市への爆撃に対する報復として、カンタベリーへの大規模攻撃に参加しました。この作戦の後、飛行隊全体がシチリア島のコミソへ移動しました。
「爆弾のヴィリー」の死
北アフリカでの戦闘爆撃任務が、ロシア戦線よりもはるかに危険であることは、すぐに明らかになりました。
12月2日、我々は飛行隊長ヴィルヘルム・ハッホフェルト大尉を失いました。攻撃パイロットとしての優れた戦果から、「爆弾のヴィリー(Bomben Willi)」の愛称で親しまれていた人物です。彼は敵から遠く離れた場所で起きた、愚かな事故によって命を落としました。攻撃に出発しようと離陸を開始したばかりのところ、別の飛行場から到着し、滑走路上に停止したばかりのBf 109と衝突したのです。フォッケウルフは機首からひっくり返って炎上し、パイロットは救助隊が火炎から引きずり出す前に絶命しました。我々は乗員室から、目の前で展開する悲劇を無力なまま見守ることしかできませんでした。
北アフリカ航空戦
やがて連合軍は我々の飛行場への爆撃を開始しましたが、当初は大きな損害を与えられませんでした。迎撃に当たったJG 53の第I・第II飛行隊のBf 109と、JG 2の第II飛行隊のFw 190が、初期の攻撃の大部分を食い止めました。12月4日のシディ・アフメド攻撃では、出撃したイギリス空軍第18飛行隊のビズレー爆撃機11機がすべて失われています。
我々はボーヌ沖の艦船への攻撃を続けるとともに、前線付近の砲兵陣地、補給庫、車両を攻撃しました。テレプテ、テベッサ、カイルアンの各飛行場も爆撃しています。12月末、飛行隊はIII./SKG 10(第10高速爆撃航空団第III飛行隊)に改編されましたが、任務内容に変更はなく、従来どおりの作戦を遂行し続けました。
即応待機の日々
攻撃のほとんどは単一目標への直接攻撃でしたが、1回の出撃で2~3の異なる目標を攻撃することもありました。その場合、我々は武装したまま機内で即応待機(Sitzbereitschaft)につき、任務の最終目標に関する直前の決定を待ちました。これは、陸軍による攻撃とタイミングを合わせる必要がある場合や、敵の攻勢が開始され我が軍の支援が必要となった場合に行われるものでした。
チュニジアの独伊両軍は、東西から迫る連合軍の挟撃の鉗に、次第に追い詰められていきました。
消耗する部隊
空中では、はるかに優勢な敵機に圧倒され、損害は悲惨なまでに増大していきました。北アフリカ滞在中、機体も燃料も爆弾も不足していませんでしたが、戦闘で失われたパイロットの補充はごくわずかしかありませんでした。配属されてくる新しいパイロットは学校を出たばかりで経験が乏しく、そのため多くの者が着任後まもなく消息を絶ちました。夕方遅くシチリア島から到着したばかりの若いパイロットが、2~3日後には戦死する――そんなことがあまりにも多かったのです。事態は悪化の一途をたどり、ついに飛行隊には将校がいなくなり、任務は准尉によって遂行される有様となりました。戦闘爆撃機のエースであるフリッツ・シュレーダー中尉が1月に着任して指揮を執りましたが、すでに状況は、個人の努力では戦局を変えられないところまで進んでいました。
被弾と脱出
アフリカの独伊両軍にとって終わりが近いことは疑いようがありませんでしたが、私自身はそれを予感してはいませんでした。1943年1月24日、私はイタリアから補給物資を運ぶ輸送船団の護衛哨戒に参加していました。交代して基地へ戻る途中、突然、曳光弾が機体の横をかすめるのが見え、連続する衝撃音が響き、私のフォッケウルフは振動して炎上しました。太陽の中から現れたアメリカ製ライトニング(P-38)に奇襲されたのです。私は機体を反転させ、風防を投棄してパラシュート脱出しました。
降下中、攻撃による衝撃は消え去り、代わりに左前腕に激痛が走りました。目をやると、飛行服の裂け目から血が大量に流れ落ちています。砲弾が腕を貫通し、骨を折っていたのです。水面に達する頃には、腕はまったく使えなくなっていました。なんとか救命胴衣を膨らませましたが、ゴムボートは片手だけでは膨らませられませんでした。私は数時間、耐え難い苦痛に耐えながら海上を漂い、幸運にもイタリアの駆逐艦が現れました。私が発射した信号弾に乗員が気づき、救助されたのです。船は私をチュニジアへ運び、数日後、他の負傷者とともにイタリアへ後送されました。
再び空へ、そして……
腕の傷は深刻で、軍医は当初、肘から先の切断を考えていました。そこで再び幸運が訪れます。ルフトヴァッフェの医療関係者がこの件を知り、条件のはるかに良い彼らの病院へ移送してくれたのです。そこで外科医たちは、脚から採取した骨組織を腕の骨に移植することに成功しました。私は順調に回復し、1943年10月には再び飛行適性があると認められました。
私は、春と夏の地中海戦域で受けた甚大な損失のため、オーストリアのグラーツで再編成中だったIII./SKG 10へ復帰しました。しかし、実戦に復帰してまもなく、外科医たちの仕事は見事だったものの、修復された腕は戦闘飛行の負荷に耐える強度を持たないことが明らかになりました。こうして、私の戦闘爆撃機パイロットとしてのキャリアは、そこで幕を閉じたのでした……。