
チンディットは、第二次世界大戦中に活躍したイギリス陸軍の特殊部隊です。公式には1943年に第77インド歩兵旅団、1944年にはインド第3歩兵師団として編成されました。
オード・チャールズ・ウィンゲート将軍によって訓練・指揮された彼らは、ビルマ(現ミャンマー)戦線において前線から遥か後方へ侵入し、中国からインドへ向かう日本軍に混乱と不安を植え付ける任務を担いました。その補給は完全に空輸に依存していました。ビルマへの遠征は二度行われ、第一次は1943年2月の「ロングクロス作戦」で、3,000名の部隊が作戦期間中を通じてジャングルを1,600km行軍しました。第二次は1944年3月の「サーズデー作戦」で、これはさらに大規模なものであり、アメリカ陸軍航空隊のフィリップ・コクラン率いるエアコマンドの支援を受け、2万名のイギリスおよびイギリス連邦軍によって実施された、この戦争で二番目に大きな空挺侵攻作戦でした。しかしこの作戦開始から数週間後、ウィンゲートは乗機の墜落事故により命を落としました。
チンディットの作戦手法は、小規模な部隊単位で行動し、最大規模の作戦でもサン=ナゼール襲撃程度であったイギリスのコマンド部隊とは対照的に、大規模な強襲を実践した点に大きな特徴があります。
誕生の経緯
第二次世界大戦中、ビルマにおける日本軍の防衛線の背後に浸透するため、イギリス・コマンド式の訓練法に基づく特別部隊が編成されました。1943年の第一次遠征の後、1944年3月には、部隊はグライダーもしくはC47双発輸送機による空挺、またはジャングルを行軍する形で展開し、日本軍の戦線から320km奥深くまで進出しました。この「サーズデー作戦」は成功を収め、後に降伏へ追い込まれることになる日本軍の戦力を打ち砕きました。
一方で部隊は多くの犠牲を払い、捕虜、負傷者、戦死者が続出しました。生存者たちは過酷なジャングル生活に苦しみ、補給が米陸軍航空隊による空輸のみに頼らざるを得なかった時期には、輜重用のラバを食べることも余儀なくされました。この部隊は、東アフリカ・南アフリカ出身者、オーストラリア人、ビルマ人、イギリス人、香港華人、グルカ兵、インド人、ニュージーランド人の志願兵からなる多国籍部隊でした。「チンディット」という名称は、ビルマの寺院を守護する伝説上の半獅子半鷲の霊獣「チンテー(Chinthe)」を英語風に訛らせたものです。
軍事作戦
チンディットによる二度の主要な遠征は、記録的な速さでビルマとマレーを征服し、連合軍を唯一最後の防衛線であるインドへと押し込んでいた日本軍参謀本部に混乱をもたらすとともに、連合国側の士気を高めることを目的としていました。
ロングクロス作戦(1943年2月)

1943年2月に実施された最初の作戦「ロングクロス作戦」は、3,000名の部隊がジャングルの中を1,600kmにわたって行軍した遠征でした。
サーズデー作戦(1944年3月)
約1年後の1944年3月に行われた第二次の「サーズデー作戦」は、2万名のイギリス・イギリス連邦軍が投入されるより大規模な作戦であり、第二次世界大戦で二番目に大きな空挺作戦となりました。しかし、ウィンゲートはこの作戦開始直後に亡くなりました。
これら二つの遠征では、部隊の主力をグライダー、またはC46・C47双発輸送機によって、敵の注意を引かないよう簡素に整えられた着陸地帯へ投入しました。作戦はアメリカ陸軍航空隊第1エアコマンドの支援を受けて実施され、補給は完全に空輸に依存していました。チンディットは戦場でアメリカ軍の「メリルズ・マローダーズ」とも連携し、日本軍だけでなく、気候条件や熱帯病といった目に見えぬ最悪の敵とも戦わなければなりませんでした。
結論
チンディットは、ビルマとマレーでの迅速かつ圧倒的な成功により「最高のジャングル戦闘員」と見なされていた日本軍に対抗すべく創設された、ジャングル戦専門の部隊でした。実際、日本本土にはジャングルこそ存在しないものの、日本軍は武士道の伝統に基づき、地形に適応し、現地の資源から補給を調達する形で戦っていたのです。
大規模な遠征部隊を敵領域内のジャングルへ投入し、空からの補給に依存するというチンディットの理念と手法は、少数精鋭で活動するイギリス・コマンドとは異なり、他の作戦へ一般化することが難しいものでした。興味深いことに、戦術的には、ディエンビエンフーの戦いにおいて、「キャストール作戦」で旧日本軍の小規模飛行場跡地というジャングルの中、ラオスへ続く街道の交差点に拠点を設置した際、フランス軍はチンディットのモデルから着想を得ていたと考えられています。