イギリス軍コマンド部隊の誕生と概要
第二次世界大戦初期の1940年6月、イギリス軍は「コマンド(Commandos)」と呼ばれる最初の正規軍事奇襲部隊を創設しました。これは従来の連隊制度に属さず、通常の軍事教義とは異なる非正規の手法で、ドイツ占領下のヨーロッパ大陸において攻撃、攪乱、偵察任務を遂行することを目的としていました。過去の戦争におけるゲリラ戦の教訓に触発されつつも、歴史上初めて公式に認められた軍事奇襲部隊として位置づけられます。
編成と人員
志願兵と選抜基準
コマンド部隊は、イギリス陸海空軍および英連邦諸国の軍人、さらにナチス占領下のヨーロッパ諸国から亡命してきた人々から志願兵を募って編成されました。採用基準は極めて厳しく、「若年であること」「心身ともに完璧な健康状態であること」「自動車の運転・整備・修理ができること」「船酔いしないこと」が条件とされました。また、作戦後に志願により元の部隊へ復帰できる権利が明文化されていましたが、実際に復帰を希望する者はごく少数でした。
名称の由来と戦術思想
「コマンド」という名称は、ウィンストン・チャーチル首相がボーア戦争でイギリス軍を苦しめたアフリカーナーの「コマンド(Kommandos)」にちなんで、皮肉とユーモアを込めて命名しました。彼らは農民出身の狙撃手で、徒歩や馬で小集団行動し、奇襲と待ち伏せの後は荒野へ消える機動力を持っていました。この「数的・物質的劣勢を、分散と集中の機動力によって軍事的優位に転じる」という思想が、イギリス軍コマンドの核心となりました。
部隊構成と指揮スタイル
コマンドは3〜4人の汎用性の高い少数精鋭チームで行動し、各員が互いの役割を補えるよう訓練されました。そのモットーはナポレオン戦争のネイ元帥にちなみ「コマンド兵は万能なり(commando soldiers apt a tout)」。装備と編成は任務に応じて柔軟に変更されました。ある指揮官は「将校は無実が証明されるまで常に間違っている」と嘆いたほど、現場の判断と即応性が重視されました。
作戦遂行の鍵は、詳細なブリーフィング(事前説明)にありました。全員が作戦目的と詳細を理解しており、指揮官が戦死しても訓練と才能で即興的に任務を継続できました。指揮は「前へ」ではなく「我に続け」というスタイルで、知的かつ高いモチベーションを持つ部下を率いるものでした。
歴史的背景:ダンケルクからコマンド創設へ
コマンドの考案者は、ダドリー・クラーク中佐(後の大将、1889-1974)です。1940年、ダイナモ作戦(ダンケルク撤退)の直後の暗黒期、ジョン・ディル帝国参謀総長の副官だった彼は、ド・ゴール将軍の自由フランス軍への合流呼びかけに触発され、ゲリラ戦の可能性を模索しました。スペイン独立戦争やパレスチナのアラブ反乱での経験を踏まえ、「重火器も後方支援もない絶望的な状況で、どう強力な敵に対抗するか」という問いをチャーチル首相に提示し、承認を得ました。
主要な軍事作戦
初期の奇襲作戦と士気高揚
ドイツの「海獅作戦(イギリス上陸計画)」と空襲(バトル・オブ・ブリテン)で本土侵攻の脅威が迫る中、チャーチルはBBCを通じて国民に勝利を伝える戦果を必要としていました。コマンドはノルウェー北部、ノルマンディー海岸、チャネル諸島などで奇襲を繰り返しました。最初の作戦は1940年6月23-24夜のブローニュ=シュル=メール地区への「カラー作戦」、続く7月14-15夜のガーンジー島への「アンバサダー作戦」です。これらは「蚊に刺されたような」小規模なものでしたが、敵を苛立たせ、イギリス国内には勝利のニュースを届けるという二大目的を果たしました。その後、ルイス・マウントバッテン提督(国王の従弟)が統合作戦司令官として指揮を執りました。
ディエップ奇襲(ジュビリー作戦)と教訓
1942年8月19日のディエップ奇襲(ジュビリー作戦)は、両翼でのコマンド部隊の奇襲は完全な成功だったものの、中央のカナダ正規歩兵の上陸が壊滅的失敗に終わった、賛否両論ある作戦です。この教訓から「港湾を正面から奪取しない」「重装備の正規軍と軽装備の特殊部隊を混用しない」という原則が導かれ、1944年ノルマンディー上陸作戦(D-Day)ではコマンドが先行して橋梁と交通の要所を静かに確保し、正規軍の到着まで保持するという役割を果たしました。
サン=ナゼール奇襲(チャリオット作戦)
もう一つの大成功は1942年3月28日の「チャリオット作戦」です。サン=ナゼールの乾ドックを破壊し、ドイツ戦艦ティルピッツの大西洋進出を阻止するため、老朽駆逐艦キャンベルタウンを爆薬満載で突入させる大胆な作戦で、多大な犠牲を払いながら戦略的目標を達成しました。
特殊部隊の系譜と発展
コマンド部隊から派生・発展した主要な特殊部隊には以下があります。
- 特殊空挺部隊(SAS)
- 特殊舟艇部隊(SBS)
- 長距離砂漠グループ(LRDG)
- チンダット(ビルマ戦線の長距離浸透部隊)
長距離砂漠グループ(LRDG)
北アフリカの広大な砂漠では、目印のない孤独な航法が偵察任務の鍵でした。1940年、ラルフ・バグノルド少佐によって創設されたLRDGは、地中海からチャド、エジプトからチュニジアまで広範囲をパトロールし、情報を収集・伝達しました。彼らのトラックは、ルクレール将軍率いる自由フランス軍のムルズーク・クフラ奇襲(自由フランス軍初の大規模作戦)を輸送し、後にチュニジア戦線で英米軍と合流する足掛かりを作りました。
特殊空挺部隊(SAS)
LRDGの輸送支援を受けていたSASは、やがて独自の車両で前線深くへ奇襲をかけ、姿を消すスタイルを確立しました。「敢えて行う者が勝つ(Who dares wins)」のモットー通り、その大胆さは敵を常に警戒させ、大量の兵力を後方警備に釘付けにしました。
創設者はデビッド・スターリングとジョック・ルイス(ともに第8コマンド所属の少尉)。1941年、ロバート・レイコック准将のレイフォースの中でSASを創設し、現代特殊部隊の原型となる戦い方を革命的に変えました。SASの哲学は「定型的戦術の拒否と即興の徹底」にあります。形式的戦術が「秩序から秩序へ(シュレーディンガー的)」であるのに対し、SASの即興は「ノイズから秩序へ(フォン・フェルスター的)」、つまり状況への可用性による自己組織化です。
戦線が北アフリカからシチリア、イタリアへ移るとSASは地形に適応し、ノルマンディー上陸時にはブルターニュでドイツ軍を牽制しました。戦後は植民地戦争、対テロ作戦(1980年イラン大使館突入)、湾岸戦争(1991年、イラクのスカッドミサイル狩り)などで活躍し、世界中の特殊部隊の模範となっています。
特殊作戦執行部(SOE)
SOEは枢軸国(独・伊・日)占領下諸国における破壊活動、ゲリラ戦、諜報活動を専門とする極秘組織でした。アルジェ(フォース6)、ハルツーム(フォース101)、カイロ(フォース133)、キャンディ(フォース136)、ロンドン(フォース139)、バーリ(フォース266、399)など世界中に拠点を置きました。フランス自由軍志願者のピエール・ブールはSOEでビルマ作戦に従軍し、その経験を『戦場にかける橋』の原作に活かしました。SOEは1946年1月15日解散し、MI6(秘密情報部)に統合されました。
特殊舟艇部隊(SBS)
SBSのモットーは「団結して勝つ(United we conquer)」。フランス海軍コマンドやアメリカ海軍SEALs(UDT水中爆破チームから発展)の祖先的存在です。ただし戦闘水泳員(コンバット・スイマー)の技術は、イタリア海軍のボルゲーゼ公爵率いる「第10マス浮上艇隊(デチマ・マス)」に由来し、その技術は世界中に模倣されました。