イエスが最期を迎えたとき、権力者を恐れた弟子たちは彼を受け入れることを拒みました。しかし、イエスの死後まもなく、十二人の主要な弟子たちはキリスト教の布教を開始します。彼らは互いにほぼ独立した形で、ユダヤ人にも非ユダヤ人(異邦人)にもイエス・キリストのメッセージを伝えていきました。
その結果、イエス・キリストの教えにはさまざまな形態が生まれ、広く普及していきました。十二使徒はそれぞれ後継者を任命し、その後継者は当時「司教(ビショップ)」と呼ばれました。
聖パウロの役割
当時、「聖パウロ(聖パウルス)」と呼ばれるキリスト教の聖人がいました。彼は十二使徒の一人ではありませんでしたが、ユダヤ世界において「福音」を広めるうえで最も大きな成功を収めた人物として認められていました。福音とは、イエス・キリストがもたらした良き知らせのことです。その良い知らせとは、「神の王国が地上に到来する」というものでした。
多くの人々は、聖パウロが説いたキリスト教は、イエス自身の教えとはかなり異なるものだと考えています。パウロは有能で学識ある人物でしたが、イエスのような社会改革者ではありませんでした。つまりパウロは、ユダヤ社会の慣習や信仰を批判することなく、神学的な教えの伝道に専念したのです。
パウロは目的を達成し、キリスト教の布教は着実に進展していきました。ほどなくしてキリスト教はエルサレムを離れ、ローマへと到達します。ただし、イエスの筆頭弟子である聖ペトロがローマに教会を設立し、自らの弟子の一人をそこの司教に任命しました。一方、ローマで実際に説かれていた教義は、聖パウロによるものでした。
聖書の成立
ユダヤ人には、タナハ、タルムード、ミドラーシュと呼ばれる三大宗教文書があります。タナハは紀元前およそ1300年前に成立したとされ、時代ごとに改変が加えられてきました。その大部分はモーセによって書かれたと伝えられています。
聖書の基盤となったのは、旧約聖書と呼ばれるタナハです。「旧約(オールド・テスタメント)」と称されるのはこのためで、「タルムード」や「トーラー」とも呼ばれます。一方、新約聖書は西暦50年から100年にかけて書かれました。
新約聖書には、イエス・キリストの生涯とその教えが記されています。原語はアラム語とギリシャ語でした。新約聖書はイエスの四人の弟子、すなわちマタイ、ルカ、ヨハネ、マルコによって書かれ、キリスト教の始まりはこの「新約聖書」からと考えられています。新約聖書は聖書の後半部分にあたり、イエスの生涯、教え、そして弟子たちによる宣教の記録を含んでいます。
新約聖書は27の書物からなり、三つの部分に分けられます。(1) 福音書―4冊、(2) 使徒行伝―1冊、(3) 書簡(エピストル)―22冊です。22の書簡のうち、14はパウロに関係し、7は公同書簡、1はヘブライ人への手紙に分類されます。この27の書物は、キリスト教のほぼすべての教派で普遍的に認められています。
西暦400年頃、聖ヒエロニムス(聖ジェローム)は聖書をラテン語に翻訳しました。これが「ウルガータ(ヴルガータ)」と呼ばれるもので、何世紀にもわたり広く普及しました。カトリック聖書は旧約46巻・新約27巻、プロテスタント聖書は旧約39巻・新約27巻、正教会の聖書は旧約49巻・新約27巻で構成されています。
福音とは何か
キリスト教における福音(ゴスペル)は、神の支配の到来を告げる知らせを意味します。その本質は、イエス・キリストの誕生、生涯、十字架での死、そして復活を描いた物語です。聖書の various な翻訳では「良い知らせ(グッドニュース)」とも呼ばれ、これはギリシャ語の「euangelion(エウアンゲリオン)」という言葉が古英語へ訳されたことに由来します。福音の物語の核心は、イエスの四人の弟子マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによって書かれた四つの福音書に見ることができます。
キリスト教徒への死刑
ローマ人は当初、キリスト教にほとんど関心を払いませんでした。彼らはこれもユダヤ教の一宗派にすぎないと考えていたのです。しかし次第にキリスト教徒たちの勢いが増し、彼らは他のあらゆる信仰に対抗する存在となりました。キリスト教徒たちは古代ローマの神々の像を崇拝することを拒み、ついにはローマ皇帝の像を拝むことさえ拒んだのです。
そのため、ローマ人はキリスト教徒を好争的で偏狭な者たちと見なすようになりました。皇帝の像の前で平伏しないことは反逆罪とみなされ、多くのキリスト教徒が死刑を宣告されました。さらにキリスト教徒たちは、娯楽として動物と人間を戦わせる興行にも反対していました。
しかしそれこそ、ローマ民族の何千年にもわたる伝統であり、この時代までにローマ人にとっては宗教的な儀礼の形を帯びていたのです。こうしてキリスト教の宣教師たちは国家と民衆の双方から迫害され、財産を没収されていきました。多くのキリスト教徒が飢えたライオンに投げ込まれたのです。
アンドロクレスとライオン
若い修道士と一頭のライオンの物語はローマのキリスト教文学に見られ、イギリスの作家ジョージ・バーナード・ショーが有名な戯曲『アンドロクレスとライオン』の中で痛切に描いています。この物語は当時のローマ文明の一端を照らし出すとともに、キリスト紀元最初の三世紀におけるローマ帝国でのキリスト教徒への迫害をも映し出しています。
この物語によれば、アンドロクレスという名のキリスト教の修道士が、ある日森の中で前足に棘の刺さったライオンを見つけました。ライオンは足を引きずり、苦痛にうめきながら歩いていました。アンドロクレスは最初ライオンを恐れましたが、繰り返し足を舐めてうめく姿を見るうちに勇気を振り絞り、ライオンの足から棘を抜き取ったのです。
しばらくして、修道士は「キリスト教徒」という罪名でローマ兵に捕らえられ、奴隷の一団としてローマへ送られました。ローマ皇帝は家臣たちとともに円形闘技場(コロッセオ)に座り、奴隷たちの戦いを見物しました。その戦いでは奴隷たちの体から血が流れ、四肢が地面に転がり落ち、生きながらえたいままに切り裂かれていったといいます。
ローマの皇帝や市民は、苦悶する奴隷たちの姿を見て大いに喜びました。戦うことを拒否した奴隷は、飢えたライオンの放たれた闘技場に投げ込まれ、ローマ人たちはライオンが奴隷に飛びかかる光景を見物したのです。キリスト教の修道士アンドロクレスも同じ闘技場へ連れて行かれ、別の男との戦いを命じられました。
痩せ細ったアンドロクレスは戦うことを拒みました。すると彼は飢えたライオンの前に突き出されます。檻の中の空腹なライオンは大声で咆哮し、闘技場へと飛び込みました。ところが、ライオンがあの修道士を目にした瞬間、おとなしく座り込み、前足を修道士へと差し出したのです。
この光景を見た皇帝は深く驚き、アンドロクレスとライオンの両方を解放しました。キリスト教の修道士は、そのライオンを連れて森へと帰っていったといいます。
信仰のための犠牲
キリスト教の宣教師たちは、ローマの支配者が行っていたこうした残虐行為を、信仰のために必要な犠牲と受け止め、喜んで命を捧げる覚悟を固めていました。宣教師たちのこの忍耐強く静かな姿勢はローマ人の心を打ち、彼らはキリスト教徒の言葉に耳を傾けるようになりました。その結果、多くのローマ人が古来の宗教を捨て、キリスト教徒へと改宗していったのです。