コンスタンティヌス大帝の登場
西暦305年、ディオクレティアヌス帝が退位すると、翌306年、その後継者の死を受けてコンスタンティヌス(1世)が皇帝の座に就きました。彼は後に「コンスタンティヌス大帝」と呼ばれることになります。14歳の頃からディオクレティアヌス帝のもとで軍事遠征に参加し、戦場で経験を積んできた人物でした。
実は、先代ディオクレティアヌス帝の時代から、大ローマ帝国はすでに東方と西方の二つの大きな管区に分けて統治されていました。ディオクレティアヌス帝自身も、ローマ市内ではなく東方領域内にあるクロアチア地方(現在のスプリト付近)に宮殿を構えて暮らしていたのです。
帝都の移転――コンスタンティノープルの建設
コンスタンティヌスが帝国の全権を握ると、324年、首都をローマから帝国東部の辺境へ移すことを決断しました。新首都の候補に選ばれたのが、黒海と地中海を結ぶ海峡沿いに位置する古代都市「ビザンティオン(ビザンチウム)」です。ここなら、東部国境で戦う軍団を自ら指揮し、確実に統制下に置けるからです。
やがて彼はビザンティオンの近くに新都市の礎石を据え、これを自らの首都と定めました。この都市は後に「コンスタンティノープル」の名で呼ばれ、さらに時代が下ると「クスタントゥニヤ(イスタンブール)」として知られるようになります。330年には新首都の落成式が盛大に執り行われました。
また、皇帝コンスタンティヌスは教会と聖職者たちを税負担から免除し、数々の特権を与えました。325年にはニカイア公会議を主宰し、キリスト教教義の統一を図ったことでも有名です。
ローマに任命された共同統治者
首都がローマからビザンティオン(コンスタンティノープル)へ移ると、帝国が東西に分割される可能性は一層現実味を帯びてきました。それでも、西方帝国のための共同統治者は、引き続きコンスタンティノープルの皇帝によって任命され続けます。306年にはウァレリウス・セウェルスがローマの副帝(カエサル)に任じられました。
マクセンティウスによるローマ占拠
ところが307年、ローマの正統な支配者であったセウェルスは、ローマ貴族出身のマクセンティウスに捕らえられ、自殺を強いられてしまいます。マクセンティウスはその後、首都ローマと西ローマ帝国を武力で掌握しました。
308年、コンスタンティノープルの皇帝コンスタンティヌス1世は、母方の叔父にあたるリキニウス(1世)をローマ皇帝として宣言しましたが、マクセンティウスはローマから退こうとはしませんでした。決着がついたのは312年、ミルウィウス橋の戦いです。コンスタンティヌスはこの戦いでマクセンティウスを撃破しました。伝説によれば、開戦前夜に空に十字架と「この印に勝て」という言葉を目撃したことが、彼のキリスト教への傾倒につながったとされています。
コンスタンティヌスとキリスト教
皇帝コンスタンティヌスはキリスト教に対して概ね寛容でしたが、自身は長らく古来の多神教(異教)を信仰していました。とはいえ、この時期までにキリスト教の布教者たちは政府体制の中にも影響力を築くことに成功していました。一部の歴史家によれば、コンスタンティヌスは337年、臨終の床でキリスト教の洗礼を受けたといいます。
313年にはリキニウスとの連名で「ミラノ勅令」を発し、キリスト教を公認しました。その後、キリスト教の影響力は東ローマ帝国のみならず、西ローマ帝国と首都ローマにも急速に広がります。そして古代以来受け継がれてきた多神教的・異教的なローマ伝統宗教は、次第に禁止されていきました。
国家の圧力により、古代の多神教ローマ宗教は数年のうちに帝国から姿を消していきます。こうして、創建から約300年間の冷遇の時期を経て、ローマ司教(主教)の権威は大きく高まり、やがて教皇としてローマの行政にも影響力を及ぼす存在となっていったのです。
コンスタンティヌスの後継者たち
337年にコンスタンティヌス大帝が死去すると、息子のコンスタンティヌス2世がローマの支配者となりました。しかし340年、弟コンスタンス1世との戦いの中で命を落とします。以降は340年代にコンスタンス1世が、351年頃からはもう一人の息子コンスタンティウス2世が帝国を統治しました。その後、同じ家系出身のユリアヌス(背教者と呼ばれた皇帝)がローマの王座に就きます。
皇帝ユリアヌスは363年、ペルシア遠征の戦闘で命を落としました。ここからローマ帝国の衰退は一気に加速します。後を継いだのはユリアヌス麾下の司令官ヨウィアヌスでしたが、在位わずか8か月、33歳の若さで、火災の煙による窒息(一酸化炭素中毒とみられる)のため亡くなりました。
これらの皇帝たちは、東西両ローマ帝国をあわせて支配する君主でした。しかし後には、東と西の帝国は再び別々の支配者の手に分けられていくことになります。
西方帝国の支配者は、東方皇帝によって共同統治者として任命される形式をとりましたが、東方皇帝による西方帝国への支配は、もはや名ばかりのものとなっていきました。