古代の歴史

ベネチア1日目 ─ 2019年5月25日

朝5時27分に目が覚めた。トイレを済ませてから、昨日の旅の詳細を書き留める。今日は午前11時にベネチアへ向けて出発だ。列車は正午発。ヴィジャイがこちらで予約していたベネチアのサービスアパートメントのオーナーに、「午後2時半に到着します」とメッセージを送った。

返信は即座に来た。「ダメだ、午後2時半には来れない。チェックインは午後3時からだ」。ヴィジャイが「列車は2時35分にベネチア着です。アパートに着くのはそのあとだから、3時になりますよ」と返すと、「列車がいつ着こうが、君たちが何時に着こうが、時間は3時からだ」との一点張り。

これまでイタリアで3都市を巡ってきた。計画の最後、4都市目がベネチアだ。世界的に名高いワインの産地として知られる街である。予定通り午前11時ぴったりにサービスアパートメントを出た。

徒歩で駅へ──節約と発見

ここからトラム停留所までは徒歩100メートル。一方、裏道を750メートル歩けばメインの鉄道駅へ直行できる。7.5ユーロ(約600ルピー)を節約するため、われわれは後者を選んだ。狭い路地をスーツケースを引きずりながら歩いていると、その清潔さに驚かされる。インドでは想像もできない光景だ。

世界中から来た観光客が、同じように荷物を引いて駅へ向かっている。われわれだけがケチなわけではない、と妙に安心した。

ブレットトレインでベネチアへ

駅には11時20分に到着。列車は12時30分発。ローマの駅と同様、ベンチはなく、15分ほど立ちっぱなしだった。12時20分に電光掲示板でホーム番号が表示され、12時25分に列車が到着、乗り込むと同時に12時30分発車。この列車もブレットトレインで、終始250〜300km/hで飛ばす。

途中の停車駅は2〜3か所のみ。ベネチアはイタリア北部、アドリア海沿岸に位置するため、所要時間は2時間ちょうど。午後2時35分に到着した。降りてすぐ、ヴィジャイがWhatsAppでオーナーに「列車が着きました」と連絡。「アパートまであと30分ほどです」と添えると、返信は「I don't care(知ったことか)。君たちが2時35分に着こうが、時間は3時からだ」という冷たいものだった。

不安がよぎる。気難しい大家なのか? こちらが早すぎたせいで、部屋を貸さないと言い出すのではないか? 3泊で5万5千ルピーも前払いしているのに。駅からアパートまでは徒歩約400メートル。Googleマップを頼りに10〜12分で該当の路地へたどり着いた。

ロレンツォ登場──「Hey Guys! You Don't Touch!」

その時、ヴィジャイの携帯に大家から電話。「ずいぶん待たせたな! どこだ? こっちを見ろ」。顔を上げると、手を振る男性がいた。大家のロレンツォだ。握手を求められ、ホッとした。断られる心配はなさそうだ。

建物の外扉を開け、2階分の階段を上がると、彼は階段で待ち構えていた。笑顔で「ロレンツォだ」と名乗り、荷物を奪うように持ってくれる。遠慮しても聞かない。その振る舞いを見て、さらに安心した。英語が通じなかったのか、それとも5〜10分の早着を気にしただけなのか。いずれにせよ、悪い男ではなさそうだ。

ヴィジャイ、マドゥ、バーヌに部屋の説明をし、パスポートをスキャンし、シティタックスを徴収し、鍵を2セット渡す。その間、父と私はソファで待機。最後に「していいこと、悪いこと」をヴィジャイに念押しし、ヴィジャイと握手、マドゥに手を差し出す。マドゥが合掌すると、彼は大笑いして「Hey guys, you don't touch!」と言い、父と私とも握手して去っていった。

中世ヴェネツィア様式の豪華アパート

中世ヴェネツィア様式の重厚な複層建築。われわれのフラットは2階。広大で、ベッドルーム2部屋、大広間、超大型キッチン、トイレ・バス2つ、ロビー付き。チーク材の高級なドアと窓、高価なカーテン。どの部屋にも高級家具と電子機器が備わり、広間の隅にはグランドピアノまで鎮座している。

床一面はイタリアンマーブルで、ガラスのように磨き上げられている。各部屋には天井まで届く木製書棚が並び、分厚い地理書や地図帳がぎっしり。イタリア語、スペイン語、英語の小説も混ざっている。地理の教授の家かと推測した。ロレンツォの父親が地元大学の教授だったのかもしれない。ロレンツォ自身は、あまり高学歴には見えなかったが。

地図帳の第一ページ──カシミールの行方

一冊の地図帳を開いた。最初のページはインドの政治地図。カシミールが中国とパキスタンの領土として色分けされていた。胸が痛んだ。なぜ世界はインドを理解しないのか。我々の落ち度は何か。なぜ世界の地図帳ではカシミールがパキスタン領なのか。

路地の街、ベネチア

夕食を済ませて就寝。今日もバーヌとマドゥがフィレンツェから持参した弁当で昼を済ませた。午後6時、お茶を飲んで散歩に出た。人生で初めて、これほど路地が狭い街を見た。幅3フィート(約90cm)しかない路地もあれば、頭上のアーチが高さ5.5〜6フィート(約1.7〜1.8m)しかない路地もある。

ところどころに運河があり、小さな涵洞(カルバート)で渡れるようになっている。イタリア北部、アドリア海沿岸にあるベネチアは、世界最古の都市のひとつだ。その歴史は1500年前に遡る。

フン族アッティラから逃れて

西暦5世紀、フン族の王アッティラがイタリアを蹂躙していた頃、彼を恐れた南イタリアの人々が北のアルプス山脈の森へ逃げ込んだ。途中、アドリア海の湿地が干上がって現れた無数の島々を発見し、多くの人々がそこに身を隠した。アッティラはやがて死ぬが、人々はそのまま島々に定住し、家を建てた。

時とともに運河で島々が結ばれ、巨大な都市へと成長。やがてベネチアは大港湾都市となり、大型商船が南イタリアの諸州から北アフリカのエジプト、さらにはインドのような遠方の国々と交易するようになった。

商船と都市を守るため独自の海軍を整備し、共和国を樹立。富が流入して巨大な建築が林立すると、その名は遠くまで轟いた。ヴェネツィア商人はヨーロッパ中でその富と……貪欲さで知られる存在となった。

シェイクスピア『ヴェニスの商人』

16世紀のイングランドの劇作家シェイクスピアは、ヴェネツィアの商人を題材に『ヴェニスの商人』を書いた。この戯曲は世界中で上演され、読まれ続けている。当時のヴェネツィア人の気質を、一人の貪欲なイタリア商人を通じて見事に描き出している。

蛮族の襲来が生んだ「迷路」

北イタリアに位置するヴェネツィア(ヴェネツィア)は、7〜8世紀に北欧の蛮族の侵攻に悩まされた。彼らは富裕な商人を狙って略奪を繰り返した。市民を守るため、この街では「極端に狭い路地」を作る伝統が始まった。

中世にはオーストリア、フランス、イタリア、ドイツの軍隊が攻め込んだが、これらの狭い路地が大いに役立った。路地は最終的に広場へ通じ、そこには大勢のヴェネツィア兵が待機している。敵兵が路地に入り込んで抜けようとすれば、向こう側の兵士が首を刎ねる。そのため敵軍は路地に入ることを恐れ、街全体が天然の要塞と化した。騎馬武者は二歩も進めない。武器を持った兵士一人通せないほど低く狭い路地もある。それが今日まで残っている。

路地の路面にはアスファルトではなく、石畳が敷き詰められている。路地が交わる広場にはレストランや市場が軒を連ね、オープンエアのレストランが8〜10席から100〜150席まで、空の下に広がる。昼夜を問わず、国内外の男女がタバコと酒を片手に語らう光景が、あらゆる路地、あらゆる角で見られる。ピザとパスタの国なのに、街は「ワインとタバコの街」を謳っているかのようだ。

ピッツェリアのガラス棚には、ヤギ、ヒツジ、ブタの切り落とされた頭が並ぶ。その目を見る勇気があれば、胴体から切り離される瞬間の痛みが、その瞳に映っているのがわかるだろう。

街は100以上の島々で構成され、間には海水が満ちている。海水の流れを制御して無数の運河に変えた。幅は大河のように広いところもあれば、小川のように狭いところもある。幅に応じて船、フェリー、汽船、ボート、シカラなどが往来し、市民の足と物流を支えている。

島内の市場や集落へは狭い路地を歩き、島と島は橋で結ばれている。道路らしい道路はほぼなく、徒歩かボート・フェリーで移動する。旅客・貨物輸送の面から見れば、この街は世界で唯一無二の存在だ。細い運河の中には下水を海へ流す排水路もある。

塩気と喧騒の街

外国人観光客向けにポーター(荷物運び)がいる。彼らは小さな手押し車で荷物を運ぶ。この奇妙な都市構造ゆえに、ベネチアは「世界で最も美しい街のひとつ」とされるが、私には美しく見えなかった。ローマの空気には哀愁が、フィレンツェの空気には生の喜びが漂っていたが、ベネチアの空気には海の塩気と、市民の喧騒・争いごとが混ざっている。その後3日間、その喧騒を嫌というほど体験することになる。

ガネーシュ・レストラン

運河を一つ渡って少し進むと、古びたダーバー(食堂)に「ガネーシュ・レストラン」の看板。きっとインド人がここに定住したのだろう。

ディーパの絵

ある広場で、3〜4歳の子供たちが割り箸で地面に横線を引き、ローマ字を書いて遊んでいた。親が傍らで見守っている。別の場所では3〜4人の幼児がボール遊び。親が繰り返しボールを拾ってやっている。

それを見たディーパ(娘)も「やりたい」と言い出す。私が断ると、マドゥが「遊ばせてあげて」と。マドゥには不思議な力がある。野良犬、猫、牛から、言葉の通じないイタリアの子供たちまで、誰とでも一瞬で心を通わせられる。数分もすれば、現地の子供たちのボールもチョークも、すべてディーパのものになっていた。サリー姿のインド女性が我が子のように遊んでやる姿を、親たちも嬉しそうに見守っていた。

中国人カップルの焦燥

ほどなく、非常に幅の広い運河のほとりに着いた。主要運河のひとつらしい。渡る橋はなく、モーターボート(水上バス)のみ。チケット売り場のシステムを理解しようとしていると、中国人の若い男性が近づいてきて「チケットはどこで買えますか?」と聞いてきた。連れの中国人女性も一緒だ。二人とも強い不安を顔に浮かべている。

案内板を指して「ここに説明があります」と伝えたが、7〜8回指し示しても理解できない。女性は黙ったまま。ヴィジャイに「説明してくれ」と言うと、ヴィジャイが彼のスマホを借りてGoogle翻訳で説明しようとしたが、彼はスマホを渡そうとしない。二人は相当焦っている様子。話から察するに、仲間とはぐれ、Googleマップによると仲間は運河の対岸にいるが、徒歩では渡れず、ボートのチケットも買えないでいるらしい。

ボート乗り場のゲートは電子ロックで、チケットなしでは開かない。彼らは落胆して去っていった。われわれはその場に立ち尽くし、気の毒で見守るしかなかった。5〜7分後、彼らが戻ってきて、「この運河を渡る方法は?」とまた私に聞いてきた。

再度私が対応。「料金は1.5ユーロと7.5ユーロの二種類。地元民は1.5ユーロ、外国人観光客は7.5ユーロだろう。まず2ユーロ硬貨を機械に入れてみろ。出なければさらに5ユーロ入れろ。もう一枚も同じ手順で」と伝えた。なんとか理解してもらえたようだ。今回は真剣に聞いてくれた。「現地人ではないが、ここでは英語を話せるのはわれわれだけで、われわれの言葉しか理解できない」と彼らも気づいたのだろう。

ノー・クリケット!

その後どうなったかはわからない。われわれはアパートへ戻った。驚いたのは、街のどこにもクリケットをしている少年たちの姿がなかったこと。バレーボール、サッカー、バドミントンをしているグループは見かけたが。おそらくイタリア人は自分たちをイギリス人より優れていると考え、イギリス人のスポーツをすることさえプライドが許さないのだろう。

ここに来て初めて、クリケットが「イギリスとその元植民地のスポーツ」であることを実感した。イタリアも数百年、フランス、ウィーン、ギリシャ、オーストリアの王たちの旗下にあったが、それは奴隷的な支配ではなく、自発的にそれらの王を皇帝と仰いだに過ぎない。当時のヨーロッパは一国のように振る舞っていたからだ。

ローマが数百年ヨーロッパ諸国を支配したことはあっても、ベネチアには及ばなかった。ベネチアは共和国であり、時には王国であり、一時オーストリア支配下に置かれたものの、ローマとは遠く離れていた。だからこそ、ベネチアの文化とローマの文化は大きく異なり、ここに住む人々の気質も、まったく違う。

ノー・ハーフパンツ!

途中、一軒の教会があった。建物はゴシック様式の中世教会だ。好奇心で中へ入ると、入口にビジター向けの掲示があり、イラストで「膝上の服装では入場不可」「男性はくるぶしまでの長ズボン着用必須」と示されていた。

ビジターが入れるのは教会の一部分のみ。奥は祈りのための区画。最奥の壇上には、幼子イエスを抱く聖母マリアの像。その下に立つ神父の姿もビジターからよく見える。内部には古いフレスコ画が多数残っており、海辺にもかかわらず保存状態は良好。外観の壮大さに負けない荘厳さが内部にも漂っていた。

広場の木陰のベンチにしばらく座った。少し離れたところでは誰かがバイオリンを弾き、辺りには驚くほどの静寂が満ちていた。こんな静かな場所は、インドでは探しても見つからない。インドの隅々まで人が溢れ、喧噪で埋め尽くされているのに対し、ローマ、フィレンツェ、ベネチアには静寂の王国が広がっている。

踊る少女たちの街

どの広場にも、若い女性たちのグループが踊っている。彼女たちは様々な階層から来て、公然と踊って観光客から小銭を集め、すぐに細い路地へ消えていく。

同様に、広場や橋、路地角で楽器を演奏して銭を乞う人々、絵を描いて売る画家たちもいる。彼らは乞食ではない、アーティストだ。公の場で芸術を披露し、社会から対価を求めている。インドにもこうした芸人の村が無数にあり、バーペ、ランガ、マンガニヤール、ダーディ、ラーニマンガーなど百を超える芸能職業集団が、家々や路地、村や町で芸を披露して生計を立ててきた。インドでは彼らをつい乞食と誤解しがちだが、彼らも立派な芸術家だ。イタリアではこの伝統が、より明確に、より鮮やかに息づいている。

芸術への賛辞

ある路地で、机と椅子を出して絵を描いている画家たちを見かけた。一人の画家の前で足を止める。彼は筆を動かしながらも、手を止めて「ハロー」と微笑んだ。こちらを見て嬉しそうに見えた。

A4サイズのキャンバスに水彩で描かれた絵。「いくらだ?」と聞くと、「50ユーロ。水彩だけで描いているからだ」と。4000円強と聞けば高く感じるが、その絵を描くのにかかった労力と時間を思えば、50ユーロなど安すぎる。人間の才能と時間の価値は、金銭では測れない。

英語で「素晴らしい絵だ」と伝えると、彼は感激しきった。目から感謝が溢れているのがわかった。絵が売れるよりも、芸術を褒められるほうが、彼にとってはどれほど嬉しいことか。芸術家でなければわからない喜びだ。まるで、誰かが作ったパコラ(インドの天ぷら)を「美味しい」と言ったら、作った人が「全部食べて!」と出したくなるような、お腹が褒め言葉だけで満たされるような感覚だ。

グーグル・ババ(師)

昔、村で一番年寄りが一番の知識人とされた。何でも聞かれ、人生経験豊富だからすべての答えを知っていると期待された。今、その「ババ」の座をグーグルが継いでいる。グーグル・ババのおかげで、われわれはあの広場、路地、運河、涵洞を次々とクリアし、無事アパートへ戻れた。

現代では「グーグルが個人を監視している」と罵られる。自分自身より妻が自分を知り、妻よりグーグルが自分を知り、グーグルは妻のことさえ、夫が知らないことまで知っている、と。その監視の疑いがあるにもかかわらず、今日グーグルが人類に提供している貢献の大きさを否定はできない。命を救い、事故を防ぎ、時間を節約する。もちろん、グーグルが原因で離婚に至ったケースもあるだろうが。

アパートに戻り、食事を済ませ、スマホでインドのテレビチャンネルを見て、夜10時には眠りについた。