古代の歴史

ヴァンデ戦争とシュアンヌリー戦争――フランス革命期の悲劇的な内乱

概要

1792年9月から1795年10月までのフランスでは、国民公会が政権を担っていました。国民公会は第一共和政を創設した母体となる議会です。その初期の重要な決定の一つが、ヨーロッパの君主国(オーストリア、プロイセン、スペイン、イギリス)との戦争に備えて、30万人の兵士をくじ引きで徴集するというものでした。

1793年3月10日、ルイ16世の処刑や反宗教法制への反発からすでに国民公会に敵意を抱いていたフランス西部の農民たちは、この徴集令の発表を機についに蜂起しました。

ヴァンデ人とシュアン人

フランス西部には、ヴァンデ人(Vendéens)とシュアン人(Chouans)という二つの勢力が存在しました。ヴァンデ人とはロワール川以南で戦う兵士たちを指し、一方のシュアン人は、指導者ジャン・シュアン(本名ジャン・コットロー)の名にちなんで呼ばれる、ロワール川以北の戦士たちです。ヴァンデ人が一個の軍隊として組織されていたのに対し、シュアン人は待ち伏せや正面衝突を避けるゲリラ戦を展開しました。それでも両者の主張は共通しており、「カトリック王党派軍」あるいは「王党派」「白軍」などいくつかの名称で呼ばれました。

主要人物

  • マクシミリアン・ロベスピエール
  • フランソワ・アタナーズ・シャレット・ド・ラ・コントリー(通称シャレット)
  • ラザール・オッシュ
  • ジャン・コットロー(通称ジャン・シュアン)
  • ジャン=バティスト・カミーユ・ド・カンクロー
  • フランソワ・ウェステルマン

経過

  • 1793年3月10日:王党派の農民4万人は、エベー、カトリノー、ボンシャン、シャレットら指導者の周囲に素早く組織され、共和国軍と戦いました。この王党派軍は数多くの戦闘に勝利します。
  • 1793年8月1日:国民公会はヴァンデ地方への放火(焦土作戦)を決定し、この任務をフランソワ・ウェステルマン将軍に委ねました。しかし8月14日、共和国軍は白軍に敗北します。彼らは1793年10月のショレでの敗北まで連勝を重ねました。
  • 1794年:王党派を打ち破った革命派は、1793年に国民公会が定めた絶滅計画を実行に移します。ロベスピエールの支持を受けたテュロー将軍とその部隊「地獄部隊」は王党派を虐殺し、生き残った者たちは再び武器を取りました。
  • 1794年7月28日:国民公会を率いていたロベスピエールがギロチンにかけられます。同時に、ヨーロッパ諸国との戦争ももはや脅威ではなくなりました。そこで革命政府は王党派に対してより融和的な姿勢を見せるようになります。
  • 1794年8月〜10月:オッシュ将strong>オッシュ将軍がブレスト軍の、カンクロー将軍が西部軍の指揮を執ります。この二人は宥和政策を打ち出し、王党派の指導者たちとの接触を図りました。
  • 1795年2月17日:シャレット(本名フランソワ=アタナーズ・シャレット・ド・ラ・コントリー)ら白軍指導者と国民公会の間で、ラ・ジョネの和約が調印されました。
  • 1796年:敵対行為はたちまち再開され、条約は無効とされました。

結果と影響

  • 1800年1月18日:モンフコー条約の調印により戦争は終結します。しかしその後1815年に戦火が再燃し、完全な終結は1832年まで持ち越されることになりました。
  • ヴァンデ戦争とシュアンヌリーは、極めて激しい内戦でした。革命派がこれを象徴的な存在とみなしたため、数十万人もの犠牲者が出ました。特にロベスピエールは、共和主義的理念を暴力によって押し付ける「恐怖政治」を敷く際に、この戦争を利用したのです。