
イギリス政府の意向とニザームの抵抗
イギリス政府の見解では、ハイデラバードにとって唯一の現実的な道はインドへの加盟でした。しかし、ハイデラバード側の官僚たちや、コンラッド・コーフィールドの意を受けて動くインド政府政治部の職員たちは、総督の助言に耳を貸さないようニザームに進言し続けていました。
こうした中、1947年8月7日、サルダール・パテルの指示により、インド国民会議派はハイデラバード藩王国でサティヤーグラハ(非暴力不服従)運動を開始しました。
これに対しニザームは、強硬なイスラム教徒組織「ラザーカル」を藩王国警察とともに後押しし、運動を徹底的に弾圧しようと図りました。その結果、運動は次第に暴力的な様相を呈するようになりました。同じ頃、テランガナ地方では共産主義者たちが指導する大規模な農民闘争も展開されていました。
「暫定協定」とラザーカルの横暴
総督からの圧力を受け、1947年11月、ニザームはインドとの間に「暫定協定(スタンドスティル協定)」を調印しました。この協定では、郵便、電信、鉄道、道路輸送、そしてインドとハイデラバード間の通商が円滑に継続されることが定められていました。しかしニザームは、インド連邦への加盟という問題そのものについては終始回避し続け、さらには自国領内の狂信的なイスラム教徒組織ラザーカルを支援し続けました。
ニザームはラザーカルに対し、「我々が反旗を翻せば、イギリス人の友人たちが必ず助けてくれる」とまで確約していたといいます。ニザームの後ろ盾を得たイスラム教徒共同体組織「イッティハードゥル・ムスリミーン」と、その準軍事組織であるラザーカルは、多数派であるヒンズー教徒住民への脅迫や略奪を開始し、州外へ逃れるよう仕向けていきました。ラザーカルの暴力行為により、藩王国の平和と秩序は大きく損なわれていきました。
ハイデラバード藩王国を通過する鉄道や道路は破壊され、列車やバスで移動中のヒンズー教徒が襲撃・略奪される事件が相次ぎました。情勢は極めて悪化の一途をたどりました。
ラザーカルの指導者カーシム・リズヴィーは、インド政府に対し「全インドを征服し、デリーの赤い城(レッドフォート)にニザームのアーサフジャーヒーの旗を掲げてみせる」と公然と脅しをかけました。その後、ハイデラバード州内ではヒンズー教徒に対する大量虐殺が始まり、彼らの財産は略奪あるいは破壊されていきました。
説得の限界と決断
マウントバッテン、サルダール・パテル、V・P・メノンの3人はニザームを説得しようと尽力しましたが、もはや情勢はニザーム自身の手にも負えないところまで進んでいました。ラザーカルや狂信的な宗教指導者たちはイスラム教徒の大衆を扇動し、宗派間暴動を引き起こし続けていたのです。パテルとメノンは、マウントバッテンが1948年6月にイギリスへ帰国するまでは沈黙を守り続けました。
その後の1948年9月、ニザームはついにマウントバッテン案の受け入れに応じる用意があると表明しました。しかしこれに対しパテルは、1948年9月13日、「今となっては遅すぎる。マウントバッテン案はすでに去ったのだ」と答えたのです。
ポロ作戦――5日間での決着
当時、ネルー首相はヨーロッパ歴訪中であり、サルダール・パテルが首相代理として政務を執っていました。そこでパテルは当日、ハイデラバードをインドに編入するようインド陸軍に命じました。この作戦は「ポロ作戦(オペレーション・ポロ)」と名付けられました。
ジョイアント・ナート・チョードリー少将率いるインド軍はハイデラバードへ進軍し、わずか5日間の戦闘でラザーカルの抵抗を完全に粉砕しました。数千人のラザーカルが命を落とし、その遺体がハイデラバードの各地に横たわっているのが目撃されました。
1948年9月17日、ハイデラバード軍のE・I・イドラス将軍は、セカンダラーバードにおいてチョードリー将軍に降伏しました。こうしてハイデラバードは、わずか5日間の武力行使によってインドへ併合されたのです。懸念されていたような爆撃や内乱は最終的に起こりませんでした。翌18日には、チョードリー少将がハイデラバード藩王国の軍政長官に就任し、ハイデラバード藩王国は正式にインド連邦へと組み込まれました。
併合後のハイデラバード
ニザームは新体制の受け入れを余儀なくされましたが、サルダール・パテルは彼を敬意をもって遇しました。ニザームは藩王国の名誉元首としてとどまることを許されています。その後、1956年の州再編成に伴い、ハイデラバード藩王国は解体され、その領域はアーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州、マハーラーシュトラ州へと分割編入されました。