古代の歴史

人間と市民の権利の宣言(1789年):採択の経緯と歴史的意義

1789年8月26日、フランス制憲国民議会は世界史に名を刻む文書――「人間と市民の権利の宣言」――を採択しました。本記事では、宣言が生まれるまでの激動の出来事、起草に関わった人物、そしてその内容と歴史的な影響について詳しく解説します。

宣言に至るまでの動き

  • 6月20日:代議士たちはヴェルサイユの球戯場(ジュ・ド・ポーム)で、議長バイイを中心に宣誓を行いました。国民議会として再結集した彼らは、「フランスに憲法を与えるまではこの部屋を去らない」と決意します。これが有名な「球戯場の誓い」です。
  • 7月14日:パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃しました。
  • 8月4日:全国で農民の反乱が相次いだ「大恐怖」を受け、制憲国民議会は聖職者と貴族の封建的特権および権利の廃止を採決しました。

こうした混乱の中で、国家の根幹を定める基本原理が求められるようになり、宣言の起草が本格的に始まりました。

起草に関わった主要人物

  • ジャン=ジョゼフ・ムーニエ
  • エマニュエル=ジョゼフ・シエイエス
  • ジルベール・デュ・モティエ(ラファイエット侯爵)
  • アンヌ・アントワーヌ・ジュール・ド・クレルモン=トネール
  • ジェローム・シャンピオン・ド・シセ
  • オノレ・ガブリエル・リケティ(ミラボー伯爵)

成立の経緯

人間と市民の権利の宣言は、7月に始まった議論を経て、1789年8月20日から26日にかけて起草されました。起草後に採択・票決されたこの宣言は、1791年憲法の序文を構成しています。

この文書は、啓蒙思想の到達点を象徴するものです。英米の権利章典や独立宣言といったアングロサクソン系の宣言文書、ロックやルソーらの啓蒙哲学、それまでの議会審議での成果、さらに1789年に全国から寄せられた陳情書(苦情表)などから着想を得ています。三つの委員会が順にこれらの思想を一つの文書へと統合し、その結果生まれた宣言は、やがて国際的な影響力を持つに至りました。

17条の内容

最終的な条文は全17条からなり、個人の権利と国民(国家)の権利が織り込まれています。中心に据えられているのは、人間の「不可侵かつ不可譲の」権利、すなわち自由・所有(財産)・安全・抑圧への抵抗の四つです。財産権は「不可侵かつ神聖なもの」と規定されました。

さらに宣言は、新しい社会の政治体制と市民同士の関係を確立・組織化する役割も担っています。自由、市民的平等、国民主権という三つの原則は、啓蒙思想家たちが批判してきた王権の恣意的な支配に終止符を打つものでした。

なお、宣言は採択されたものの、正式な効力を持つのは1791年9月3日の憲法公布の時となります。

宣言がもたらした影響

  • 宣言の採決は、1789年6月以来の革命の諸原則を改めて確認するものでした。1789年11月3日に公布されますが、正式に確立するのは1791年9月3日の憲法公布時です。
  • この文書は旧体制(アンシァン・レジーム)の終焉と、普遍主義に基づく新時代の幕開けを画しました。王国は潜在的な「共和国」へと変貌し、臣民は法と税の前で平等な「フランス市民」となりました。市民たちは、表現の自由、意見の自由、宗教的良心の自由、そしてあらゆる隷属を禁じる自己決定の自由といった、奪うことのできない個人の自由を保障されることになったのです。
  • 三権分立の原則によって国王から立法権が奪われ、さらに国民主権の原理が打ち立てられたことで、王権は大きく制限されることになりました。

こうして「人間と市民の権利の宣言」は、近代立憲主义と人権思想の出発点となり、後世の世界各国の憲法や国際人権規約にも深い影響を与え続けています。