
総督を議長とする分割評議会の発足
1947年のインド・パキスタン分割を効率的に進めるため、イギリス領インド帝国の総督(マウントバッテン卿)を議長とする「分割評議会」が設置された。評議会には、インド側の代表としてH・M・パテルが、パキスタン側の代表としてチョードリー・ムハンマド・アリーが参加している。
評議会を補佐するために20の委員会および小委員会が組織され、約100人の高級官僚がその業務に従事した。各委員会の仕事は、さまざまな提案を作成し、承認を求めて分割評議会へ提出することであった。
独立まであと73日――特製カレンダーのカウントダウン
ラリー・コリンズとドミニク・ラピエールは、この分割作業の様子をきわめて印象的に描いている。
「8月15日まで、正確にあと73日となっていた。それまでに、いわば『離婚届』となる書類を何としても仕上げなければならない。職員たちに絶えず緊張感と機動力を保たせるため、マウントバッテンは特製のカレンダーを印刷させ、デリーの関係各庁のオフィス一つひとつに掲示させた。カレンダーは毎日一枚ずつめくられ、各ページ中央の赤い丸の中には、8月15日まであと何日かを示す数字が記されていた。まるで核爆発へのカウントダウンが始まったかのように、一日一日が数えられ、そして日ごとに残された時間は短くなっていった。」
二人の弁護士に託された「財産分与」
このインド的「離婚」において、膨大な財産分与の書類作成という重責は、最終的に二人の男の肩にかかった。両者とも対等の地位にある弁護士であり、一人はムスリム(イスラム教徒)、もう一人はヒンドゥー教徒であった。チョードリー・ムハンマド・アリーとH・M・パテルは、毎日山積みのファイルを処理しながら、それぞれムスリムとヒンドゥーの利益を守り抜いたのである。
委員会と小委員会に分かれた約100人の職員たちは、毎日さまざまな報告書をこの二人の弁護士に提出した。それをもとに勧告文書を作成した二人は、最終承認を求めて分割評議会へ送付した。この分割評議会の議長は、総督自身が務めていた。
最大の争点は「金」だった
両陣営の間で最も激しい論争が交わされたのは、お金をめぐる問題である。とりわけ微妙だったのが債務の問題だ。第二次世界大戦で国庫が空になっていたイギリスから債権を回収することは、決して容易ではなかった。イギリスがインドを去る際、大戦中にイギリスへと流れたインドの資金はおよそ5億ポンドに達したとされる。この途方もない負担は、世界大戦の間にイギリスに課せられたものだった。
国家の借入以外にも、資産はさまざまな形で眠っていた。国有銀行の手元資金、インド準備銀行の金庫室に保管された金塊、粗末な小屋で勤務する地区行政官たちが管理する少額の現金、そして全国に散在する郵便局の文具などの資産価値――そうしたものすべてが分配の対象となったのである。
17.5%という配分比率
評議会は、銀行・政府部門・郵便局に保管される金銭や物品、さらには家具類の分配についても決定を下した。分割協定では、パキスタンが銀行保有現金の17.5%、およびスターリング(ポンド建て)残高の17.5%を受け取ることが決められた。
同時に、パキスタンはインドの国債務の17.5%を引き受けることも取り決められた。さらに、国の巨大な行政機構の中で移設可能な資産については、80%をインドに、20%をパキスタンに配分することが決定された。
道路と鉄道の分割
当時、国内には全長約18,077マイル(約29,000km)の道路と、約26,421マイル(約42,500km)の鉄道路線が存在した。このうち、4,913マイル(約7,900km)の道路と7,112マイル(約11,400km)の鉄道がパキスタンの分となった。
象徴的なエピソードも残されている。総督の白と黄金の列車はインド側に渡り、その見返りとして、インド軍総司令官とパンジャーブ州知事の車両がすべてパキスタンに譲られた。総督の列車には金板を張った客車が6両、銀板の客車が6両あったが、金板の客車はインド側へ、銀板の客車はパキスタン側へと帰属することになったのだ。
境界委員会――4人ずつの判事たち
モーズリーの記述によれば、パンジャーブとベンガルのために、それぞれ4人の判事からなる二つの別個の委員会(境界委員会)が設けられた。各委員会はインド側の判事2人とパキスタン側の判事2人で構成され、2人を除く残りの判事はすべてインド高等裁判所の判事であった。
シリル・ラドクリフ卿の監督の下、C・C・ビスワスとB・K・ムカルジー(国民会議派代表)、サーリフ・ムハンマド・アクラムとM・A・ラフマーン(ムスリム連盟代表)がベンガルの分割を担当することになった。一方、メヘルチャンド・マハージャンとテジャ・シング(国民会議派代表)、ディン・ムハンマドとムハンマド・ムニール(ムスリム連盟代表)がパンジャーブの分割を担当したのである。