古代の歴史

国民公会とは?フランス革命期の統治機関の成立から終焉までをわかりやすく解説

国民公会とは

国民公会(Convention nationale)は、1792年9月から1795年10月にかけて、フランス革命期のフランスを統治した立法機関です。王政を打倒して第一共和政を樹立し、革命の最も激動の時代を主導しました。

成立までの背景

フランス王政が深刻な危機に直面していた1789年、三部会(身分制議会)が招集されましたが、同時に民衆も蜂起しました。第三身分は同年6月に国民議会として自らを組織し、8月26日には「人間及び市民の権利の宣言」が公布されます。

政治体制は依然として王政のままでしたが、対外的な圧力や国王ルイ16世の非協力的な態度(1791年6月にはパリからの逃亡を図るヴァレンヌ逃亡事件を起こす)により、革命勢力は次第に急進化していきました。

そして1792年8月、パリの急進的民衆であるサン=キュロットがテュイルリー宮殿を襲撃します。これを受けて立法議会は国王の権限を停止し、新しい議会の召集を宣言しました。こうして1792年9月2日、男子普通選挙によって国民公会が選出されたのです。

期間:1792年9月21日 ~ 1795年10月26日

主要人物

  • マクシミリアン・ロベスピエール(Maximilien de Robespierre)
  • ジョルジュ・ジャック・ダントン(Georges Jacques Danton)
  • ジャン=ポール・マラー(Jean-Paul Marat)
  • ルイ・アントワーヌ・サン=ジュスト(Louis Antoine de Saint-Just)

議席の構成と手続き

国民公会は749名の議員で構成され、議場内では大きく3つのグループに分かれていました。右派に位置するのがジロンド派で、おもに自由主義的なブルジョワ層を中心とするグループです。中央には平原派(「沼沢派」とも呼ばれる)が座り、左派には山岳派が陣取りました。国民公会の歴史は、以下の3つの時期に区分できます。

① ジロンド派主導の時期(1792年9月~1793年6月)

1792年9月21日以降、ジロンド派が多数派を形成しました。この時期の最重要施策は第一共和政の宣言と国王への死刑判決です。国王ルイ16世は1793年1月21日、パリでギロチン刑に処されました。

② 山岳派による革命政権の時期(1793年6月~1794年7月)

山岳派は、共和国を守るための一時的な体制として「革命政府」を樹立しました。革命の成果を防衛するために急進的な措置が次々と講じられ、公安委員会や革命裁判所といった新機関を山岳派が掌握します。恐怖政治が敷かれる一方で、封建的権利の廃止や、1794年2月4日の奴隷制廃止なども実現しました。また、ヴァンデ地方の反乱は過酷に鎮圧されました。しかしこうした独裁的な暴走は、1794年7月27日(テルミドール9日)のロベスピエール処刑へとつながることになります。

③ テルミドール派主導の時期(1794年7月~1795年10月)

平原派の支持を受けたテルミドール派の国民公会は、それまでの方針からの転換を図りました。革命政府は廃止され、国内の反革命勢力への対応と並行して、プロイセン、スペイン、オランダとの戦争を終結させるバーゼル条約を締結します。さらに共和暦3年憲法(1795年憲法)を採択し、名士たちによる共和政と、納税額による制限選挙(納税資格選挙)を確立しました。

結果と影響

  • 1795年10月26日、国民公会はその役割を終え、後継体制である総裁政府(ディレクトワール)に権力を引き継ぎました。
  • フランス革命のこの時期は、戦闘による犠牲者のほか、弾圧や死刑の多用によって多くの市民が命を落とし、革命全体の暗いイメージにつながっています。一方で、1793年の「人間及び市民の権利の宣言」は、1789年の最初の宣言には含まれていなかった公的救済や教育といった基本的な社会権を認めており、後の民主主義の基礎となる重要な原則を打ち立てた点でも意義深いものでした。