ロベスピエールの死によって恐怖政治に終止符が打たれると、フランスは総裁政府による合議制の権力を手に入れました。しかし、この政権は王党派の脅威によって絶えず弱体化し、両院の均衡の欠如が政治の停滞を招いていました。こうした状況はクーデターにとって絶好の条件となり、シエイエスとタレーランが計画し、ナポレオン・ボナパルトが実行したブリュメール18日~19日のクーデター(1799年)へとつながります。
その後、ボナパルトは次第に統領政府の権力を掌握し、第一帝政(1804-1814)への道を切り開いていきました。実際、ボナパルトは自らに全権を与え、1804年12月2日に皇帝として戴冠します。治世の初期は輝かしい勝利に彩られましたが、1812年のロシア遠征での大敗が彼の権威を揺るがしました。1814年のフランス戦役においてヨーロッパ列強の連合軍に敗れたナポレオン1世(1769-1821)は、同年4月6日に退位を余儀なくされ、エルバ島へ追放されます。長年の戦争に疲弊していた民衆は、王政の復活を歓迎したのです。

登場人物
- シャルル10世
- ルイ18世
- ナポレオン1世
経緯
追放された皇帝の代わりに、ルイ16世の弟であるルイ18世(1755-1824)が1814年に権力の座につきました。ここから「復古王政」が始まり、この時代は二つの段階に分けられます。新国王は、革命とナポレオン時代の遺産を否定できないことを早くから理解していました。そこで彼はフランス国民に憲章(ラ・シャルト)を与え、絶対王政を廃してより穏健な体制へと移行します。この憲章は平等、個人の自由、表現の自由、そして何よりも出版の自由を宣言するものでした。さらに、国王が任命する貴族院と、選挙で選ばれる議員院という二つの議会が創設されました。
しかし陰では、ナポレオン1世がエルバ島を脱出し、1815年3月1日にジュアン湾に上陸、ルイ18世がヘントへ逃亡する中で首都へ帰還しました。帝政が復活し、第一次復古王政はここに終わりを告げます。連合国は宿敵に対して結束し、皇帝は1815年6月18日のワーテルローの戦いで最終的な敗北を喫しました。彼はセントヘレナ島へ流刑となり、そこで生涯を終えています。しかしこの「百日天下」の出来事は、逃亡者とみなされた国王のイメージに傷を残し、穏健王党派、超王党派(ウルトラ)、帝政支持者の間の緊張を再燃させました。こうしてルイ18世は、いわば第二次復古王政を再建することになったのです。
ルイ18世の死後、弟のアルトワ伯爵(1757-1836)が王位を継承し、1825年にはルイ18世が中止していた戴冠式の儀礼を復活させました。こうして即位したシャルル10世は、民衆に与えられた権限を速やかに見直し、出版の自由を停止します。この「ウルトラ」派による権威主義への回帰は、1830年7月の民衆革命、「栄光の三日間(トロワ・グロリューズ)」を引き起こし、シャルル10世の亡命をもたらしました。
影響
王政の復古は帝政に終止符を打ち、フランスの王座に再び王権をもたらしました。そして七月革命は復古王政の終焉とシャルル10世(1757-1836)の亡命を決定づけましたが、君主制そのものは権力を維持します。以後、ルイ・フィリップ1世(1773-1850)として即位したオルレアン家のルイ・フィリップが率いる「七月王政」が、フランスを統治していくことになるのです。