第一次世界大戦は、1914年7月28日から1918年11月11日までの約4年間、ヨーロッパを中心に世界規模で戦われた、史上初の「総力戦」でした。かつて「大戦争(The Great War)」と呼ばれたこの戦争は、各国の経済・社会・国際秩序に計り知れない影響を残しました。

勃発の背景
ナショナリズムの高揚と国民国家の形成
19世紀のヨーロッパでは、ナショナリズム(民族主義)が台頭し、国民国家の形成が進みました。1871年にドイツ帝国が成立し、イタリアでは統一運動「リソルジメント(Risorgimento)」が実を結びます。こうした流れの中で「自民族による独立と統一国家の樹立」を掲げる主張が各地で強まり、民族間の対立や領土問題が次第に先鋭化していきました。
二大陣営による同盟体制
新たなヨーロッパ秩序のもと、万一の紛争に備えた同盟体系が整えられました。フランス・ロシア・イギリスによる「三国協商(トリプル・アンタント)」に対し、ドイツ・イタリア・オーストリア=ハンガリーは「三国同盟(トリプル・アライアンス)」を結成。列強は二大陣営に分かれ、緊張は一触即発の状態にまで高まっていました。
開戦の経緯
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝位の継承者フランツ・フェルディナント大公が、サライェヴォ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)訪問中にセルビア人青年によって暗殺されました(サライェヴォ事件)。同年7月、これを口実にオーストリア=ハンガリーがセルビアへ宣戦布告すると、同盟関係が連鎖的に発動し、瞬く間にヨーロッパ全土が戦火に巻き込まれていったのです。
戦争の推移
マルヌの戦いと塹壕戦への移行
1914年8月、ドイツ軍はベルギーを経由してフランスへ侵攻しましたが、マルヌの戦いで進撃を阻止されます。当初、軍首脳部が描いていた「短期決戦」の構想は崩れ、戦況は西部戦線での持久戦、すなわち塹壕戦へと移行しました。兵士たちは塹壕に潜り、長期にわたる消耗戦を強いられることになります。
世界大戦化と総力戦体制
交戦国は植民地からも兵力を動員したため、戦争は世界的な規模へと拡大しました。同時にこの戦争は「総力戦」でもありました。参戦国の経済は完全に戦争遂行のために再編され、国家が直接経済へ介入して生産計画を策定します。総動員で工場や農村から男性が引き抜かれると、それまで女性には門戸が開かれていなかった職務を担うようになりました。さらに当局は検閲やプロパガンダを展開し、世論を戦争支持へと導こうとしたのです。
消耗戦とヴェルダンの戦い
戦術の中心は、敵陣地の突破を図りつつ相手を疲弊させる消耗戦となりました。なかでも1916年は激戦が相次いだ年であり、その象徴がヴェルダンの戦いです。推定70万人もの死傷者が出ながらも、戦線には目立った進展が見られませんでした。
1917年:士気の低下と転換点
1917年に入ると、愛国的な熱狂は深く蝕まれていきます。後方ではストライキが、前線では反乱が相次ぎ、道徳的危機が表面化しました。同年11月のロシア革命(ボリシェヴィキ革命)を受けてロシアが戦争から離脱すると、ドイツは西部戦線へ兵力を再配置できるようになります。
一方、アメリカ合衆国の参戦(1917年4月)は連合国にとって大きな転換点となりました。潤沢な物的・軍事的支援によって機動戦を再開できた連合国は、1918年10月にドイツ軍を押し戻すことに成功します。革命の波に押された皇帝ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ、1918年11月にワイマール共和国が誕生。同年11月11日の休戦協定調印により、第一次世界大戦は幕を閉じました。
戦争の帰結
- 史上初の産業化された紛争である「大戦争」は、1700万人もの犠牲者を出しました。顔に重い傷を負った負傷者は「破壊された顔(ゲール・カセ)」と呼ばれ、戦争の悲惨さを今に伝えています。
- この戦争はヨーロッパの優位性に終止符を打ちました。戦勝国・敗戦国を問わず、各国は財政・物資・人口の面で深刻な困難に直面することになります。
- 精神的な打撃も甚大でした。大国は「これが最後の戦争であるべきだ(仏語で『デル・デ・デル』)」という願いのもと、世界平和を保障する国際機関として国際連盟を設立しました。