革命期フランスを取り巻く内外の危機
フランス革命は、君主制国家が並び立っていた当時のヨーロッパにおいて異例の出来事であり、革命フランスは周辺諸国から孤立することになりました。その結果、国内では王党派による反革命運動という内的脅威に、対外的にはヨーロッパ諸国君主の連合軍という外的脅威に同時に直面し、政治・社会の両面で深刻な緊張状態が生じました。
1791年8月、プロイセン国王とオーストリア皇帝による「ピルニッツ宣言」は、フランス革命に対抗するためヨーロッパの君主国を団結させました。ルイ16世自身もこの動きに関与しており、その狙いは君主制ヨーロッパの結束と相互支援を維持することにありました。
1792年4月19日〜20日、立法議会の議員たちの採決により、フランスはオーストリアへの宣戦布告に踏み切ります。王室側は、革命という「くびき」からの解放を願い、オーストリアの勝利を密かに期待していたとされています。
「祖国は危機にあり」とテュイルリー宮殿襲撃
1792年7月11日、立法議会は「祖国は危機にある」と宣言しました。これを受け、地方から義勇兵(フェデレ)の大隊がパリへ続々と到着し、なかでもブレストとマルセイユの部隊がよく知られています。さらに7月15日にはブラウンシュヴァイク公の宣言が発せられ、王室に危害が加えられればパリへ報復すると脅迫しました。
そして1792年8月10日、テュイルリー宮殿襲撃(8月10日事件)によって君主制は事実上の終焉を迎えます。国王一家は立法議会によりタンプル牢獄へ幽閉され、ここに旧体制(アンシャン・レジーム)は幕を閉じ、国民公会の時代が始まりました。
サンキュロットの政治的役割
1794年までの間、8月10日事件の勝利者であるサンキュロットが政治の中心で大きな役割を果たしました。彼らは庶民層、すなわち質素な職人や都市労働者、貧しい農民たちであり、物質的な平等と急進的な革命措置を求めました。武装し人民クラブに組織された彼らは革命の生きた原動力となり、政治家たちへ絶え間ない圧力をかけ続けたのです。
1792年9月20日のヴァルミーの戦いにおける勝利は、連合軍のフランス国内への進攻を食い止める決定的な一歩となりました。
期間:1792年9月21日〜1799年11月8日
主要人物
- マクシミリアン・ロベスピエール
- エマニュエル・ジョゼフ・シェイエス
- ナポレオン・ボナパルト
- ジャン=ジャック・ド・カンバセレス
- シャルル=フランソワ・ルブラン
政治的変遷
第一共和政は、ヴァルミーの勝利の翌日にあたる1792年9月21日、国民公会によって正式に成立を宣言されました。フランス政治史における著しく不安定な時期であり、アンシャン・レジームの廃止後、第一帝政の到来までに三つの政体が相次いで樹立されました。すなわち国民公会(1792年9月21日〜1795年10月26日)、総裁政府(1795年10月26日〜1799年11月9日)、統領政府(1799年11月10日〜1804年5月18日)です。
国民公会とジロンド派の失脚
1792年9月2日に普通選挙で選出された国民公会の議員たちは、「単一かつ不可分」のものと宣言された国民(1792年9月25日)との契約を結び、強力な諸制度によって国家の安定と秩序を回復する使命を担いました。議席を占める749名の議員は主にブルジョワ出身で、右派のジロンド派(革命の停止を望む)と左派の山岳派(より急進的な路線を支持)が対峙し、中央には状況に応じて左右いずれにも与する日和見的な「平原派(マレー派)」が位置していました。
当初はジロンド派が優勢で、国民公会はジェマップの戦い(1792年11月6日)をはじめ対外戦争で複数の勝利を収めます。しかし、国王裁判をめぐる曖昧な態度や山岳派との激しい対立に加え、1793年春の戦局悪化(3月18日のネールウィンデンの敗北、4月6日のデュムーリエ将軍の裏切り)によって急速に信頼を失いました。国民が極度の貧困と飢饉に苦しむなか、ジロンド派は権力の座から徐々に追われ、1793年6月2日には民衆の圧力によって一部議員が逮捕されるに至ったのです。
山岳派の支配と恐怖政治
山岳派の主導となった国民公会は、内戦の渦中にある国で革命を推し進めようとしました。すべての力は領土の平定に注がれ、強権的な統治機構が敷かれ、それこそが「恐怖政治」を生み出します。体制の敵と認定された者、あるいは疑われた者はすべて、革命裁判所と公安委員会によって「国民のカミソリ」と呼ばれた断頭台へ送られました。ロベスピエールは公会内の急進派も穏健派も処刑に踏み切り、怒れる者(アンジュレー派)も寛容派(アンダンジュ派)も断頭台に消えていきました。しかし、議員たちにとっても脅威となったロベスピエールは、1794年7月27日、彼を排除する陰謀によって逮捕され、ここに恐怖政治は終焉を迎えます。翌日にはテルミドール派が権力を掌握しましたが、国内の状況は依然として深刻でした。
総裁政府の成立とブリュメールのクーデター
革命政府の機構は解体され、ブルジョワ共和政の再建が図られます。1795年10月26日、三年憲法の公布によって総裁政府の基礎が築かれました。権力の独裁的行使を防ぐよう設計されたこの体制は、統領(ディレクトワール)、長老会、五百人会といった各機関の独立性と職能の分担を保証していました。しかしこの体制は、シェイエス修道院長とナポレオン・ボナパルトが画策したブリュメール18日のクーデター(1799年11月9日)によって打倒されます。軍事的勝利によって名声を高めていたナポレオンがその中心的存在でした。翌日には統領政府が設置され、ボナパルト、カンバセレス、ルブランの三頭政治(トリウンヴィラ)が構成されましたが、実権はすべて第一統領に就任したナポレオン一人の手に集中していったのです。
歴史的影響
- 革命がもたらした混乱は、国家の利益よりも党派的野心を優先して互いに争う議員たちの対立を露呈させました。共和派と王党派の絶え間ない衝突は陰謀やクーデターを頻発させ、貧困と飢饉に苦しむ民衆がその犠牲となりました。こうした新たな情勢は、九月虐殺に端を発する民衆暴力の拡大につながっていきます。
- 1792年から1799年にわたる恒常的な政治不安は、ナポレオン・ボナパルトの台頭を後押ししました。彼は政治・経済・社会のあらゆる危機から脱却する唯一の希望と見なされ、十二年憲法による新体制(帝政)を確立します。実際、統領政府期には厳格な統治政策によって混沌としたフランスの状況は改善され、国家の完全な平定と、社会の発展を監督しうる強固な national institutions の構築が進められました。
- ナポレオン・ボナパルトの登場は、フランスを皇帝崇拝と国家の栄光を掲げる独裁体制へと導き、フランスはヨーロッパにその威光を輝かせることとなりました。