古代の歴史

プラハの春とは?1968年チェコスロバキアの改革運動とソ連軍介入の歴史

背景:戦後チェコスロバキアと共産主義体制

第二次世界大戦後、チェコスロバキアは事実上ソ連による共産主義支配下に置かれました。モスクワはプラハに対し、ヨーロッパ復興を目的としたアメリカの経済支援計画「マーシャル・プラン」への参加を拒否させ、共産党員が国家の重要ポストを占めるようになりました。さらに1950年代には、スターリン式の見せしめ裁判と呼ばれる大規模な粛清が行われ、数千人に及ぶ有罪判決や処刑が実行されました。

1968年1月〜8月 主要人物

1968年1月、チェコスロバキアのアレクサンデル・ドゥプチェクが国家指導者の座に就きました。彼の就任にはブレジネフの後押しがありました。新しい指導者が若く経験不足であることを、ソ連指導部は都合よく考え、操作できる存在だと見なしていたのです。

  • レオニード・ブレジネフ(ソ連共産党書記長)
  • アレクサンデル・ドゥプチェク(チェコスロバキア共産党第一書記)
プラハの春とは?1968年チェコスロバキアの改革運動とソ連軍介入の歴史

経緯:改革の始まりとソ連軍の介入

1968年1月、ドゥプチェクは一連の改革を開始しました。検閲を廃止し、市民が政治問題について自由に議論する場を認めたのです。これは共産主義からの離脱ではなく、「人間の顔をした社会主義」を実現しようとする試みでした。当時のチェコスロバキア共産党内では、自由化や非スターリン化をめぐる活発な議論が実際に行われていました。

こうして始まった「プラハの春」の改革の波は、やがて街頭へと広がっていきます。5月1日のメーデーでは、デモ参加者が政府の新政策を公然と支持しました。

しかし、この国民の熱狂が他の東欧諸国へ波及することを懸念したモスクワは、強い圧力をかけるようになります。そして1968年8月21日、赤軍(ソ連軍)がプラハに進駐しました。戦車が首都になだれ込み、国を改革しようとする動きを武力で終わらせようとしたのです。侵攻部隊には複数の国の兵士が含まれており、ワルシャワ条約機構がソ連の勢力圏内の秩序維持のために動員されました。

プラハの市民はこの軍事介入に対し、受動的抵抗(パッシブ・レジスタンス)で対抗しました。ソ連兵との議論、戦車の進行を妨げる試み、壁への落書きなど、武器を取らない抵抗です。しかし赤軍は撤退せず、以後「正常化」と呼ばれる政策によって支配を固めていきました。

結果と影響

  • アレクサンデル・ドゥプチェクは逮捕された後、プラハでの緊張激化を避けるために釈放されましたが、モスクワに忠誠を誓うグスターフ・フサークに取って代わられました。
  • 1969年8月21日、ソ連軍の侵攻からちょうど1年後、デモは流血の弾圧を受けました。プラハの春以降の弾圧は甚大で、逮捕や粛清は社会全体に及び、30万人もの人々が共産党から除名されました。運動を支持した知識人の多くは亡命を選び、作家ミラン・クンデラもフランスへと逃れました。当局が強大な権力を持ち、警察によって国民を厳しく監視する警察国家が、約20年にわたって復活したのです。
  • チェコスロバキアの人々は、1989年の「ビロード革命」によってようやく共産主義体制の崩壊を迎えることになります。