ヴィシー政権とペタン元帥
1940年7月10日、フィリップ・ペタンは全権を付与され、フランス国の元首となりました。ペタンにとって、フランスの敗北は何よりもまず精神的・政治的な問題でした。彼は「労働、家族、祖国」をスローガンに掲げ、権威主義的で保守的な「国民革命」を推進します。さらに、国土を占領していたナチス・ドイツとの協力(コラボラシオン)政策を進めたため、占領期にドイツ軍や民兵組織ミリスによって行われたユダヤ人やレジスタンスの強制送還といった罪行について、共同責任を負うことになりました。
解放後の「粛清」(エピュラシオン)
フランス解放後、フランスはいわゆる「粛清」の時代を迎えます。これは、ヴィシーの指導者層や占領者に協力した者たちを断罪しようとする動きであり、ドイツ人と関係を持ったことを理由に頭髪を剃られた女性たちは、この粛清を象徴する痛ましいイメージとして今も記憶されています。
粛清の波は社会の隅々に及びました。民衆法庭による自発的・暴力的な私的制裁もあれば、正規の手続きによる法的粛清も存在しました。司法裁判所や高等法院は、対独協力に関与した軍人、政治家、経済人、さらには高級官僚たちを裁いていったのです。
裁判の概要
日程:1945年7月23日~8月15日
主要人物:フィリップ・ペタン/シャルル・ド・ゴール
審理の経過
ペタンはフランス解放後に国外へ逃れ、スイスに留まっていましたが、1945年4月25日についに当局に出頭しました。裁判の冒頭、ペタンは自らの選択を正当化する声明を読み上げるものの、以降は公判中ずっと沈黙を貫き、防御を弁護団に一任しました。
弁護側の主張は大きく三つあります。第一に、フランスの敗北に対する責任の不在。第二に、議会が正式に授けた完全に合法的な権力掌握であること。第三に、ヴィシー政権がドイツの占領から国民を守ったという「盾」の理論――ヴィシー体制がなければ、ドイツはより苛烈な占領統治を実施していたはずだ、という主張です。
一方、ペタンの批判者たちは、ヴィシー政権が権威主義的かつ人種差別的な体制だったこと、また仮に海軍艦隊を拠り所とするなら、協力体制を築かずに戦争を継続することも可能だったはずだと反論しました。
裁判の帰結
- 1945年8月15日、高等法院はペタン元帥に死刑を宣告しました。しかし陪審員たちは、その高齢を考慮して恩赦を求めます。ド・ゴールはこの意向を受け入れ、ペタンを特赦して刑を終身拘禁に軽減しました。
- ペタンは当初南フランスのポルタレ要塞へ移送され、のちにヴァンデ県沖イエウ島のピエール・ルヴェー要塞へ移されました。1951年7月23日、95歳でその地に生涯を終えています。
- この裁判は、対独協力やヴィシー政権の本質について真の答えをもたらすことはありませんでした。政権幹部たちの証言があったにもかかわらず、当時の同時代人も今日の歴史家たちも、調査と掘り下げを欠いた不十分な裁判だったと一致して評価しています。
- 解放の際には、ヴィシーの閣僚三人――ピエール・ラヴァル、ジョゼフ・ダルナン、フェルナン・ド・ブリノン――も裁かれました。全体として約10万人のフランス人が対独協力の罪で有罪判決を受け、刑罰は最も件数の多かった市民権剥奪(国家的不名誉の宣告)から死刑にまで及びました。