背景
1924年1月21日、ロシア革命の指導者ウラジーミル・レーニンが死去しました。後を継いだヨシフ・スターリンはソ連の権力を掌握すると、個人崇拝に基づく恐怖政治を急速に築き上げていきます。
1934年12月1日、初期ボリシェヴィキ(共産主義者)であり、スターリンの後継者と目されていたセルゲイ・キーロフが、レニングラードの党本部で暗殺されました。この事件の真相は今日なお明確になっていません(単独犯行か、組織的な陰謀だったのか)。しかし、キーロフ暗殺はスターリンによる大粛清の発端と見なされています。
さらに1936年初頭には深刻な経済難がソ連を襲い、経済・政治の幹部たちが公然とその責任を問われる状況となりました。
こうした中、1936年、モスクワで最初の大規模な公開裁判が開かれることになります。
登場人物
- ヨシフ・スターリン
- ニコライ・ブハーリン
- レフ・トロツキー
- グリゴリー・ジノヴィエフ
- レフ・カーメネフ
- セルゲイ・キーロフ
裁判の経緯
キーロフ暗殺事件は1936年に改めて捜査が開始されました。国内治安を担うNKVD(内務人民委員部)は、キーロフ殺害の責任者を裁くための大規模な公開裁判を組織する役割を担いました。
しかしこの裁判は、実のところスターリンが政敵を裁くための口実にすぎませんでした。被告として選ばれたのは、ボリシェヴィズムやロシア革命の重要人物、そして党の指導者たちです。レーニンに近く、第一次世界大戦後にコミンテルン議長を務めたジノヴィエフ、革命期に共産党機関紙『プラウダ』の編集長を務め、党の高級、党の高級幹部でもあったカーメネフが、16名の被告の中核を担う大物でした。
数週間にわたり、被告たちは過酷な尋問を受けました。拷問、罪悪感を利用した精神的圧迫、自白と引き換えに命を助けるという約束など、あらゆる手段が用いられたのです。
キーロフ殺害の罪、トロツキーとの通謀、スターリン暗殺計画への関与などの容疑をかけられた16名の被告は、3日間の審理の末に罪を自白しました。彼らは8月24日に死刑判決を受け、直ちに処刑されました。
この公開裁判の根底には「演出」の原則がありました。それは大規模なイデオロギー動員を可能にし、民衆と指導者の絆を強固にすることを目的としたものです。
スターリン自身も裁判において重要な役割を果たしました。法廷を見学する聴衆の選別に関与したほか、外国政府宛ての書簡にも関わったとされています。
影響と結果
- 1936年の最初のモスクワ公開裁判は、1936年から1938年にかけて行われた一連の3つの裁判の幕開けでした。1937年の裁判では、トロツキーの支持者や親族が有罪判決を受けました。ロシア革命の偉大な人物であり、スターリン政権成立以来その右腕であったブハーリンも、「党にとって十分に共産主義的ではない」という口実で1938年に裁判にかけられ、有罪とされました。
- これらの大規模な公開裁判は、スターリン主義的粛清の仮面にすぎませんでした。ロシア各地でも同様の裁判が行われ、約3,500人が有罪判決を受けました。さらに、これらの裁判は「大テロル」と呼ばれる国家規模の虐殺をも覆い隠していました。1937年8月から1938年11月にかけて、150万人以上が逮捕され、有罪判決を受け、強制収容所(グラーグ)送りとなるか、殺害されたのです。粛清の波は経済、軍隊、国家機構、党など、あらゆる分野に及びました。
- 弾圧はスターリン体制に不可欠な要素でした。それによってスターリンは絶対的な権力を維持することができたのです。