アラブ反乱とは
アラブ反乱(1916年〜1918年)は、オスマン帝国の支配からアラビアの独立を勝ち取るために、メッカのシャリーフ(太守)であるフサイン・イブン・アリーが起こした武装蜂起です。彼はシリアのアレッポからイエメンのアデンに至る広大な地域を網羅する、統一アラブ国家の建設を掲げていました。
この反乱は、オスマン帝国の宗主権から脱却しようとするアラブ民族主義運動の高まりと深く結びついていました。当時の帝国は青年トルコ党(CUP/統一進歩委員会)が主導しており、その中央集権的な政策がアラブ人たちの不満を一層煽る結果となっていました。
反乱の開始とイギリスの支援
1916年、フサインは青年トルコ党率いるオスマン帝国に対してジハード(聖戦)を宣言し、反乱の火蓋を切りました。フサインはイギリスから外交的・物的な支援を受けており、特に有名なのがT・E・ロレンス——いわゆる「アラビアのロレンス」——による助言です。彼の協力のもと、反乱軍はまずメッカを攻略し、続いてオスマン帝国守備隊の拠点であったメディナを攻撃しました。
アカバ占領と北上作戦
1917年6月、反乱軍は紅海に面した港湾都市アカバを占領します。この勝利により、反乱軍は紅海経由でイギリスからの補給を受けられるようになり、戦況は大きく好転しました。その後、イギリスのアレンビー将軍の指揮下で、反乱軍は北へと進軍を重ねていきます。
1917年11月17日にはヤッファ(ジャファ)が陥落し、同年12月9日にはエルサレムも占領されました。この時期までに、反乱はキリスト教徒、ユダヤ教徒、そしてアラブ系ムスリム(イスラム教徒)を巻き込んだ、幅広い連合運動へと発展していました。
ダマスカス解放とムドロス休戦協定
1918年9月、反乱軍はついにシリアの要衝ダマスカスを占領しました。そして同年10月30日、オスマン帝国はムドロス休戦協定に調印し、第一次世界大戦での敗北を正式に受け入れることとなります。
こうしてアラブ反乱は軍事的な成功を収めましたが、戦後の講和過程でアラブ独立国家の構想は完全には実現せず、中東の国境線は列強各国の思惑によって引き直されることになりました。それでもなお、この反乱は近代アラブ民族主義の原点として、中東の歴史に大きな足跡を残しています。