古代の歴史

1848年フランス二月革命――七月王政の崩壊と第二共和政の誕生

革命の背景

1830年の七月革命以来、ルイ・フィリップは「七月王政」と呼ばれる自由主義体制を敷いてきました。その統治の基盤となったのは、ほぼ憲法とも言うべき「憲章」です。

在位18年の間にフランスは商業的に大きく飛躍しました。鉄道網や銀行が発展し、産業の近代化が進みます。しかしその一方で、ブルジョワジー(資本家階級)が台頭する一方、労働者階級の貧困は深刻化していきました。

高い納税資格による選挙権の制限がありながらも民主的な制度は育ち、共和主義の理想が政治実践の中に根付き始めます。しかし議会は二つの勢力に分かれていました。一つは「革命はまだ未完成だ」と考える共和派、もう一つはルイ・フィリップを「曖昧な簒奪者」とみなす正統王朝派(王党派)です。

ギゾー内閣の影響下で、ルイ・フィリップは議会内の共和派の動きを抑え込み、体制の強化を図るようになります。政権発足当初から経済危機や伝染病の流行が社会不安を煽り、世論は険悪化。とりわけ普通選挙を求める共和派の声は高まる一方でした。1846年の総選挙では、納税額に応じた選挙権という仕組みに支えられ、ギゾーの権威主義的で王党派的な路線が勝利を収めます。

こうした中、共和派は2年間にわたり「キャンペーン宴会(改革宴会)」を開催し、その席で自らの改革構想を訴え続けてきました。しかし1848年2月22日に予定されていた宴会が禁止されたことが、二月革命の直接の引き金となるのです。

1848年フランス二月革命――七月王政の崩壊と第二共和政の誕生

日時

1848年2月22日〜24日

主要人物

  • ルイ・フィリップ(オルレアン家)
  • フランソワ・ギゾー
  • アドルフ・ティエール
  • アルフォンス・ド・ラマルティーヌ
  • アレクサンドル・ルドリュ=ロラン

革命の経過

1848年2月22日、共和派がパリで開催を予定していた宴会は当局により禁止されました。これに対し共和派は民衆にデモを呼びかけ、動員は暴動へと発展しますが、警察はかろうじて運動を封じ込めます。

ところが翌23日、国民衛兵が群衆側についたことで騒乱は再燃。国王は群衆を鎮めるためにギゾーを罷免しますが、外務省前でのデモに対して兵士が発砲し、20人から50人の死者が出ました。

事態は急速に悪化し、パリ全土が蜂起します。ティエールの入閣によっても群衆は満足せず、2月24日、ルイ・フィリップは孫への譲位を余儀なくされました。

しかし共和派はブルボン宮殿(議会)を、続いて市庁舎を占拠。同日、ラマルティーヌやルドリュ=ロランら共和派によって第二共和政の樹立が宣言されたのです。

革命の帰結

  • 1848年の二月革命は革命的熱狂をヨーロッパ全体へと広げました。いわゆる「諸国民の春」の始まりです。
  • 共和政は男子普通選挙を確立し、植民地における奴隷制を廃止、さらに労働者救済のため国立作業場を創設しました。当初は順調に見えましたが、政府は労働運動への懸念から1848年6月に作業場を閉鎖。パリには再びバリケードが築かれ、民衆蜂起は武力で鎮圧されました(約1,500名が射殺)。
  • その後、「秩序党」が議会で過半数を獲得し、農村部の共産主義的な動きに対する反動的な法律が採択されていきます。
  • 1848年12月、ルイ・ナポレオン・ボナパルトが大統領に当選。彼は1851年にクーデターを起こし、共和派も王党派も逮捕しました。反動的な姿勢を露呈した共和国を民衆は守ろうとせず、1852年12月2日、第二帝政の時代が幕を開けたのです。